moyashi-moyashi

昨日で国家公務員第一種試験の筆記試験が終了した。あと面接を受けて、運がよければ官庁訪問に行く、という段取りになっている。ただ実を言うと、…あまり自信がない。自分は公務員に向いていないのではないか、と考えることもしばしばである。



それにしても実にねちねちとした一年間だったと思う。落ちたのか受かったのか、通っているとすればどれくらいの順位なのか(国一はなぜか席次が出る仕組みになっている)、気になることも多いが、正直もう勉強したくない。

というか、同じ事を2回繰り返せといわれたら10万円もらってもやらない。絶対にやらない。思い出したくもない。100万円もらったらやるかもしれないが、そんなことはどうでもよい。


そんなにしんどい思いをして、めちゃくちゃ官僚になりたいのか、と問われると結構困るのだが、理由を挙げるとすれば、
「いくら上に反発しても辞めさせられない」、「役人に頭を下げなくて済む」、「被虐的な性格である」という、おそらくそれくらいの理由である。官僚制を打破するためには自らが官僚になるほかない。実に、3歳児並みのモチベーションというべきである。


3歳児並みと言えば、最近の自分の欲求が低レベル化していることを危惧している。「ひたすら腹が減る」「何かを殴りたい」「肯定されたい」とか。水谷修夜回り先生)に相談すべきだろうか。「夜回り先生こんばんわ、僕お腹がすいたよーママに抱っこしてもらいたいよー」みたいなうわ言を口走っても「いいんだよw」とか言うのだろうか。だとすれば日本は相当不気味である。





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倣岸な貶黜、陰惨な真摯はもうやめにする。そもそも文面が四分五裂していて何が言いたかったのか自分にも理解不能である。小難しい熟語を縷々と披瀝に及ぶのは3歳児の頃からの自分の悪趣味であり、言わば宿痾である。ただコトバを使ってはしゃぎたかったに違いない。

心機一転、大学に再び行って面接の練習をする予定である。肉でも食って元気を付けよう。

これがどうならうと、あれがどうならうと、

そんなことはどうでもいいのだ。
 
これがどういふことであらうと、それがどういふことであらうと、

そんなことはなほさらどうだつていいのだ。


人には自恃があればよい!

その余はすべてなるまゝだ……


自恃だ、自恃だ、自恃だ、自恃だ、

ただそれだけが人の行ひを罪としない。


平気で、陽気で、藁束のやうにしむみりと、

朝霧を煮釜に填めて、跳起きられればよい!

中原中也「盲目の秋」より)

忘却?

以下の文章は本当にただの独り言に過ぎずつまらないことこの上ないが、今の自分の気分を少しは正確に反映していることは確かだ。



最近嫌なことが多かったり気分が不安定だったり、本当に自分は至らない人間のようだ、みたいに思ったりして相当凹んだりすることもある、でも何日かすると大体慣れてしまう、要は目の前の事態と仲直りするというか。


誰にでも、子供のときから憧れる「理想の自己」みたいなモノがあり、私にとってのそれはシニカルで孤高な英雄、怜悧な一匹狼、マット・デイモン扮するボーン、と言った風情を漂わせた何かなのだけれど、21歳になって思うことは自分がそこからかけ離れた存在になってしまっている、と言うことかもしれない。取り立てて悪人と言うわけでも善人と言うわけでも偽善者と言うわけでもなく、人並みより若干図太く、若干内向的な文系大学生になっている事に気付いた。何よりマッチョではない。始めから予想はされていたことではあったが。


民間で回る所を絞って、しかし面接になるとあっさりと落とされる、みたいな事が続いて「つらい、でも仕方が無い」と思ったり、好意を寄せている人にキツい言葉を色々言われても、数日経てば「つらかった、でもそういうもんだ」などと考えたりする。周囲で内定が出たりする人が現れると、寮の近辺でチマチマと試験勉強していて果たして大丈夫なのかと焦る。しかしそれを苦痛と感じているようではとてもこれから生きて行く事は出来ないと考えたりもする。我ながら殊勝であると言わざるを得ない。「何か辛い事をしているおかげで人を軽蔑する権利があるとでも言いたげな眼差しほど、人を苛立たせるものはない」と三島由紀夫は言ったのだけれど、全く以てその通りで、物欲しげな影が拭えない男はいつだって敬遠されるのである。


世の中で起こる面倒な出来事の大半は克服の対象になり、それが不可能な場合は忘却の対象になる。怠惰な精神は、自らの怠惰を弁護するという目的を達する為、実に勤勉に記憶を劣化させていくだろうが、それを妨げるのも他でもない「精神」の力であり、感情が意地になって忘却を食い止める。こういった実に平俗な哲学が、つつがなく生活するうえで役に立つのである。無味乾燥な手形小切手法を勉強するとストレスが解消することに最近気付いたので精力的に取り組むようにしている。分かりにくい比喩だが、茹でた芋をひたすら食っていく感覚に似ているのだ。というわけで明日も程々に勉強する。セーフティネットは夏採用と秋採用、これで行くことにする。気が重いが世の中そういうもんである。

面接とため息

件の外資系金融機関の面接を受けてみた。

ひとことで言うと、普通に凹んだ。ため息すら出なかった。そもそも何が何だか分からなかった。「勝手」が掴めないのだ。

   

交わされた会話のごく一部を再現してみる。

私「はい、そこで中国業務推進室などの仕事をしてみたいな、と。。。」
面接官「あーでも実はあれ、中国人にしか出来ないから難しいと思うよw」
私「そうですか。。。」

私「先ほど伺った中で、7時半に帰宅できる、と言うお話はやはり意外に聞こえます。」
面接官「そう?つうか真夜中の2時か3時まで働くなんて馬鹿のやることだよw」
私「公務員は夜遅くまで働いていると聞きました。」←無意味な返し
面接官「あーあれね、あの人たちとは時間の概念が違うからw」
面接官「そもそも日本てもうだめだよねー、まず市場に魅力が無くて、…(以下長々と続く)」
私「そうですか。。。」

自分がしゃべった時間よりも面接官の与太話を聞いていた時間の方が間違いなく長い。面接官はさまぁーずの大竹をインテリにしたような風貌でしかも屈強そうであり、こちらまで自信がそこはかとなく漂ってきていた。しょうがないので私はいつも以上に平然としていた。おそらくこの辺が面接官の気に障ったものと思われる。幼稚園児の頃、祖父の法事のときにため息ばかりついていた為に親から後でこっぴどく怒られたことを思い出した。

「そうだっけ ぼくは淡々としなければいけないのだ・・・」 つげ義春ねじ式

「がんばれチヨジ! がんばれチヨジ!」 つげ義春「もっきり屋の少女」


そう、落ち込んだときに必要なものは少しのやる気と淡々とした態度である。今度こそ落ちたような気がするが、あまり気にせず頑張ろうと思う。取りあえず「ガンバル」と言っておけば世の中丸く収まるのである。たぶんだけど。

模擬試験とGD

土曜日に国家一種公務員の模試を受け、日曜日に某外資系企業で初めてのグループディスカッション(通称GD)をした。模試の結果はさて置き、面白かったのは断然GD、これである。


形式はシンプルである。6人程度の学生が机を寄せて30分ほど議論をする。時間内に一定の結論を出し、傍で監視している人事のおっさん(お姉さんの場合もある、個人的にはこちらの方が嬉しい)の前で1分程度のプレゼンをすると言う流れだ。テーマは様々だが、今回与えられたのはこんな感じだった。

「昨今の少子化時代において、大学経営者が採用すべき方策を考えてください。但し一つ条件があります。

(A)大学のブランド力 (B)就職率 (C)新規ビジネス (D)学費 (E)立地条件 (F)部活動の充実 (G)授業内容の充実
これら7つの要素を時間・コスト・パフォーマンスの観点から検討し優先順位を付け、上位4つについて中身を具体化させて下さい(大意)。」


ディスカッションの内容もさることながら、自分はむしろ議論の場に興味を持った。何が面白いか? それは「参加者の素が垣間見える」ということに尽きる。選考がかかったやや追い込まれた(しかもそれを誰かが見ている)状況でヒトがどう変化するか、火を見るより明らかだろう。一見おとなしそうに見える人が先手を奪われまいと積極的に仕掛けると見せかけて、結局付和雷同する側に回ったり、日頃「有無を言わせない人」と思われる人がやっぱり強引であったり、とか。素と呼ぶか自我と呼ぶか無意識と呼ぶか、それは人の勝手ではあるけれど。自分はと言うと…いつにもまして勝気だったが、他の人たちには及ばなかった。


個人的にツボだったのは、開始30秒の主導権争いだった。人事部長と思われる人間が「さぁ始めてください」と発言した瞬間、自分と、自分の左隣にいた女性を除く4人が一斉にしゃべり始めた。さすがは外資である。まるで日曜日の討論番組のようであった。「おぅおぅ、威勢が良いのは歓迎すべきだが、うかうかしてると埋没してしまう。さてどうしようか、困ったものである」などと漫然と考えていたら、暫くした後に、一人の男が他を圧する声量と冗長さと頑固さを兼ね備えていることが判明した。
場を仕切る権利は彼が獲得した。「しゃべりだすと止まらない」性格は、攻撃力の高い一つの武器なのである。



一方で課題も見つかった。人間の話を大きく3つ、すなわち「スジの良い意見」と「スジの悪い意見」と「おしゃべり」に分けたときに、後の二つに誰がどう対処するのか、そして自分がどうでも良い事を言ってしまった後にどう取り繕うか、という超どうでもいい問題。普段ならば「たーしかにー」等と言っていれば済ませられるのだが、30分の間にそんな悠長なセリフを吐いている暇は無い(たぶん)。

例えば学費の問題で、「うちの大学の学費高いんだよねー」と延々発言し続けるのはおしゃべりであり、「取りあえず学費上げとけばもうかるんじゃね??」と言うのはスジの悪い意見である、と思う。己を主張しようと焦る余り、普段なら「それはねーよ」などと一蹴できるような内容の発言を、ヒトは得てして行うものである。いなすのも良いが、見ず知らずの人間が数人集まった中で、場の空気を乱したり白けさせたりするのは悪いし。。。なーんて考えていたらディスカッション自体が終ってしまった。



まぁ取りあえずお前頑張れよ的な日記になった。結果が早く知りたい。

三連休と映画

ここ数日、各所で開かれている退屈な説明会の合間にねちねちと教科書ばかり読んでいたせいか、「勉強したくない」という気持ちが麻痺してきた。末期である。


それはそうと、先週と先々週の金曜日にDEATH NOTEの映画をやっていたので不覚にも最後まで見てしまった。途中戸田恵梨香が出てきて「おっかわいい」とか思っていたのだけれど、それより印象に残ったのは夜神月(あるいはキラ)がパカパカ人を殺していく際に用いる発想だった。(以下、下らない理屈をこね始める)




彼らの論理を単純化すると次のようになる。

1.「犯罪者」は「悪」である。
2.「悪」は「裁く」必要がある。
3.しかし「法」で「悪」を裁くことは出来ない。
4.だから「私」が「法」に代わって「悪」を裁く。

こういうものの考え方には、ケチを付ける付けない以前に全く共感できない。ちょうど隣で同じ寮生が見ていて「確かにライトのやってることは許されないんやろうけど気持ちはよく分かるし、むしろ支持してるかも」と話した刹那、思わず「えっマジで??」と大声を上げそうになったくらい(結局どれくらいかよく分からないが)。所詮フィクションじゃん、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、でも気になったことは確か。


なぜ共感できないのか、もそもそ晩飯を食いながらひとしきり考えて出した単純な結論はこうだった。つまり自分と「彼ら」との間で、悪をどう捉えるかが違う。自分は「非難されるべきもの」が悪だと考えているが、キラを支持する人は悪を「排除されるべき、忌まわしいもの」と捉えているのではないか。法によって裁くという行為は、雑にパラフレーズすれば「誰かをとっ捕まえて延々審問した挙句牢屋にぶち込む」行為であり、その中に非難の要素は完全に含まれているが、排除や忌避の要素は完全には含まれていない。だから悪をどう定義しようが、先に挙げた理屈の3番目で自分は詰まってしまうのである。たぶん。


相手がいないと非難することは出来ないが、排除によって人は相手の存在を消したり、あたかも存在しないかのように扱うことが出来る。ちょっと残酷な気がしませんか?それに「異常な奴は出来るだけ自分の周りから遠ざけたい」という気持ちの持ちようの裏に、いかにも呪術的な「穢れ(ケガレ)」の思想、タブーの思想を看て取ることが出来てどうにも気に入らない。


日々何かを判断しながら生きていく、その為のモノサシはたくさんある。「善/悪」が主要だろうが、もちろん他にもたくさんある。「正義/不正義」「真/偽」「好/悪」「貴/賤」…その中には「聖/穢」なんてものもある。キラの理解しがたい所は、善悪と聖穢を意図的に混同させている所である。もちろん聖=キラ=神、穢=殺されるべき者、という。犯罪者がいなくなれば平和になるという考え方を実際に支えているのは、犯罪者に対するプリミティブな恐怖だろう。自分の周りの環境がケガレてしまうことを怖れるのだ。


「自分以外の特定のヒトがいなくなれば良い」と思う感情を正当化できる事由、それは報復ただ一つである。報復は不正ではないが、正義では無い。正義は残酷でない何かである。しかるに他者の排除は残酷である。
だから報復以外の理由(恐怖)によって他者を完全に排除するキラは不正であり、もっと言えば死刑を制度化することも不正である。死刑は社会全体にとって善い事かもしれないし、必要な儀式なのかもしれない。しかし決定的に正義に悖るのである。たぶん。デスノは別にどうだって良いけど、死刑に賛成することは自分にはムリだと思った。話が飛躍して申し訳ないが、それが映画を見た感想だった。

魔法のiランド

最近「ケータイ小説」というのも結構面白いんじゃないか、という気がしてきた。語彙や表現にやや不満はあるけれど、単なる茶番劇として黙殺するのははもったいない。ありていに言えば、「書き手」を見てみたいと思わせる。


…、以前より外に良く出るようになったせいか、用事が増えてやけに忙しくなった。充実している訳では決してなく、…それは思うように行かないことが余りにも多いせいだろうが、同学年で就活している人と情報交換したりするだけでなく、社会人の話を直に聞いたり、ゼミのOB会の段取りを組んだりする過程で卒業間近の4年生5年生と会話する事は、少なくともこれから生きていく上でプラスにはなっているような気がしている。先を見通していて、ある意味醒めている感覚が伝わる。何よりみな大人である。彼らの規則正しい暮らし、働いて飯を食う生活に憧れる。そして漠然と、海外と関わりのある仕事をしたいと思うようになった。英語が出来ないとか、引っ込み思案とか、そういうハンディキャップは気にしても無意味である。とにかく応募することに意味があるのだ、と思い込んで。


結局1年経っても、テスト終了後の25番教室の、今しがた書き終えた答案内容について盛り上がっている一部の熱い(文字通り熱い)雰囲気に溶け込むことは出来なかった。溶け込みたかったけど阻まれたのか、それとも壁を作って超然とした態度を貫きたかったのか、ほんとのところは分からない。生来の反抗心が変な方向に作用しているのかもしれなかった。一部の呑気な法科大学院志望者には負けたくない、というか。無益な意地。噴飯物。単なるルサンチマン


奨学金継続願」の締め切りが迫っているらしかった。全く気付かずにいた自分がまず唾棄されてしかるべきだったが、何にもまして教務課は相変わらず冷ややかだった。出来の悪い中学2年生を相手にするがごとく、ほとんど怒られているに等しかった。それはほとんど爽快ですらあった。ただ、一つやめて欲しいのは「経済状況の設問」これである。
カネがどうしたと言うのだろうか。そして金が絡むとなぜ文章がこうも「やらしく」なってしまうのだろうか。しかし逃げたら負ける。金が好きと言う人がいたらその理由を聞いてみたい。誰でも良いから。

We Are the Night

We Are the Night

M4が最高に良い。

どうでもいい話2

以前に比べテンションは回復したが、代わりにイライラが増している。教科書を読んでいて「良く意味が分からないゾーン」に突き当たると特に。あとセミナーに行くと大体しゃべるのがおっさんだったりして全く癒されない。

「この人は見事な馬面だ」
「あの人は良い靴を履いている。イタリア製だろうか」
「2つ隣に座っている女性が昔の井上和香に似ていて妙に落ち着かない」

とかなんとか考えて気を紛らわせたりするがそういう時は大体他人の話は聞いていない。


今回の試験範囲で最も憂鬱なのは断然行政救済法か。何というか、つまらなさが行間から滔滔とほとばしっているイメージ。非常に伝わりにくいのだが自分の中ではこんな感じである。生首を書籍に置き換えればよい。Boredom というか Anger 、むしろ積極的に Rage 。Rage Against Administrative Remedy Law. 英語にしただけ。


「突然、別の方角から来た怒りが私をとらえた。私はまた六法全書に八つ当りをして、それを部屋の壁に投げつけた。何というだらしのなさだ、と私は自分を責めた。」 仮面の告白

ただ、滑稽なだけ。