ルサンチマンとわたし

本当に全くどうでも良いことだがまた少しテンションが下がってきた。太字にすることでもないが。馬鹿みたいにスパゲッティばかり茹でて食っているのが原因だろうか。あるいは勉強と称して、うにうに判例ばかり読んでちょっと良い気になっていることが原因だろうか。裁判官の理屈を辿ることはまだ難しいが、語り口をパクる程度の愚鈍な芸当は出来るようになったかもしれない。いずれにせよ、機知に欠けるパスティーシュは人を必要以上に傲慢に見せるのみである。




…と、ふと自分が精神的に衰弱していることに気付いた。なぜだか分からず尚もぼんやりしていたら一つのことに思い当たった。


野外に出ていない。そう、遊ぶことはあっても自然に触れていない。都市圏に長い間住んでいている人の滑稽で虚しい常套句だろうと高を括って今まで散々小馬鹿にしていたが、考えれば考える程間違いなく思えてくる。今まで生きてきて一番安らいだ場所はどこだろう?自分の部屋?大学図書館?居酒屋?…絶対違う。それは立山中腹のテン場だったり、納沙布岬のうらぶれたカニ料理屋だったり、木曽川上流部の河原だったり、…とにかく今いる場所から遠く離れた、樹木や水に親しいどこかである。小学校の頃からまとまった休みが出来れば親にどこかに連れて行ってもらい、中学高校の頃は部活の関係上チャリや鉄道でほいほい外出し、大学でも入ったサークルのおかげで不必要に登山に勤しんでたりしていたことを今さらながら懐かしく思い出す。


最後にアウトドアっぽいことをしたのはおそらく11月末の石廊崎だろうか。とっくに日は暮れて、最寄の駐車場から1kmあまりの暗い小径をなぜか本気でダッシュしていた。暑くなったので上半身裸で岬の突端をうろついていたら一緒にいた友人に「空気読めてないからマジでやめて欲しい」と言われたので慌てて服を着込んだ。客観的に考えれば確かに変体そのものだった。とにかく寝惚けたことがしたくて焦っていたのだった。あれからまだ1ヵ月半しか経っていないがそれでも間隔は十分すぎるほど長い。時間が窮屈になったのはそれからすぐである。 漠然と何かが終わった感覚に毎日囚われている。


「充ち足りた休暇の終わりというものがあろう筈はない。それは必ず挫折と尽きせぬ不満の裡に終る。――再び真面目な時代が来る。大真面目の、優等生たちの、点取虫たちの陰惨な時代。再び世界に対する全幅的な同意。人間だの、愛だの、希望だの、理想だの、……これらのがらくたな諸々の価値の復活。徹底的な改宗。そして何より辛いのは、あれほど愛してきた廃墟を完全に否認すること。目に見える廃墟ばかりか、目に見えない廃墟までも! 」 鏡子の家

「わたしは胸苦しく目醒めた。どうしてこのままではいけないのか?少年時代このかた何百遍問いかけたかもしれない問いがまた口もとに昇って来た。なんだって全てを壊し、全てを移ろわせ、全てを流転の中へ委ねねばならぬという変梃な義務が我々一同に課せられているのであろう。こんな不快きわまる義務が世にいわゆる「生」なのであろうか?それは私にとってだけ義務なのではないか?」 仮面の告白

様々な領域で着実に何かが進行しているが、それを全面的に受け入れることには抵抗を感じる。寮と大学を往復して時折渋谷で時間を潰しても、慰めといったらせいぜい子供じみた自己陶酔に浸るくらいが関の山だろう。とりあえず一旦全部放置して海でも山でも行きたくなった。冬の丹沢山は気候が安定して素晴らしい、と山小屋のおっさんも言っていた。ルートは把握しているので靴に軽アイゼンを付ければ今からでも登れるだろう。他の動物と異なる、人間の死ぬまで直らない悪い癖は、周囲と比較して焦って憂鬱になったり徒党を組んで他と対抗したりする所、おびただしい量のルサンチマンを自発的に蓄積させ自家中毒を起こして喘ぐ所だが、逃げ道が無いと本気で神経症になる。


、道があろうが無かろうが人類皆神経症だろう。ひっくり返っても兄弟ではない。金とか物とか言葉とか各種体液とか、とにかく何かを交換しない人間はニートとして一蹴される。よく新聞雑誌を読んでいて「平成生まれの若者はやる気も夢も無い内向き志向でほとほと困ったもんである。やれやれ」みたいな文章を目にするが、実は自分の半径50メートルの出来事にしか関心の無い人間の方が、終わることの無い象徴交換の不毛さを悟っている点で「正常」であり、程ほどに世間体のある社交的な野心的な人間の方が「異常」なのかもしれない。そうすると意識の混濁した狂人は究極の生存形態なのだろうか。知らんけど。




…いずれにせよそういうことである。閉塞感からの逃げ道を作るために自分は外出するのでは毛頭無い。ただ単に行きたいから行くのだ。自分は月並みな生活と月並みな幸福に汲々とする卑怯で青臭い人間なのでこの異常に下らない文章もさっさと終るのがベターである。まだやるべきことは山ほど残っているから。

Amputechture

Amputechture

冨山和彦の熱い話

1月8日になった。置かれた状況は1月6日と一緒だけれど。この2日ほど塞ぎこんでいたが、ようやっと少し回復してきた。なぜ回復してきたのかは分からない。

いつも不思議なのは、テンションの低い時にエンドレスで(それこそ1日中)思い悩んでいたことが、気分が乗ってきたらあまり気にならなくなってきて「まぁいいかしょうがねぇ」位にしか感じられないこと。この突然の方向転換は何??という。人間の思考のかなりの部分は生理的な条件に支配されているが完全に従属している訳では無い。その辺がなんとも微妙。

特に憂鬱な時に感じる、誰かに無理やり「考えさせられている」ような感覚が謎。実際には全く論理的思考ではないのにも関わらず、考えているような気になって変なスパイラルに陥る。凹むときはいつも螺旋状で、堂々巡りしつつ気分が落ち込むのだ。




それはそうと、今日の日経新聞に掲載されていた冨山和彦の記事が熱かった。元・産業再生機構代表取締役であり、長く事業再生の現場に身を投じてきた何かすごいおっさんによる「わたしたち」への警鐘。内容自体は特に目新しくはないものの、語り口が妙にリアルで鬼気迫るものがあった。


ここの所、青ざめたペシミズムが言論界を賑わせている。曰く、日本は衰退傾向にあると。外には国際競争力の低下、内には巨大な財政赤字少子高齢化PISAの学力調査は教育の機能不全を、ドルベースで見た一人当たりGDPランクの凋落は「円」の購買力低下とそれに伴う「豊かさ」の将来的な喪失を示唆している。日本株のパフォーマンスも世界的に「一人負け」状況にあるらしい。。


凡百の論者と異なり、冨山はその原因を、経済財政政策についての国民的コンセンサスの不在に求める。その背後に控えているのは巨大な「世代間対立」と「正規雇用非正規雇用との対立」である。彼にとっては、官民対立、労使対立、都市と地方の格差、いずれをとっても本質的な対立ではない。


「格差」ではなく「対立」、という所がミソだろう。既得権益を持つものと持たないものとの間で繰り広げられるゼロサムゲーム。日本と言う、おそらくこれ以上大きくはならないであろうパイの奪い合い。では利害対立の調停は誰が引き受けるか?それは政治以外にありえない。政治の復権が待望されているのだ。




続いて記事は、世代別の議員割り当てなどの選挙制度改革へと進むのだけれど、改革の具体的な中身の是非は分からない。分からないけど、確かにアメリカ大統領の予備選挙で、各党の候補者が大声で「変革」だの「実績」だのと喚いて聴衆が拍手喝采しているシーンを目にすると、「日本でも、民主的に選出されたカリスマ的指導者が、強いリーダーシップを背景にばばーんと懸案を処理してくれたら楽だろうな」と思う。問題は「誰が今の制度を変えるか」だろう。


既得権益についても何か考え込んでしまった。就活する際にも、まず自分の手元にあるカードが効力を発揮する企業にエントリーしたくなる。これも一種の既得権益だろう。公務員だってそうだ。「安全牌」があるのか無いのか分からない、でもそれにすがりたくなる。リスクを取るのが怖いだけなのかもしれない。早く吹っ切れたい、頭の上のハエは早く追っ払ってしまいたいと思った。


今日も相当長々とまとまりのない事を書いてしまった。まだ寝ない。

ロリータ (新潮文庫)

ロリータ (新潮文庫)

1月6日

2008年になった。言われなくても分かっているだろうが。何にも変わってないが強いて言えば若干精神的に老けた。帰省していても将来に関して何にも聞かれない。そういうもんだろう。


最近、公務員試験勉強と企業のエントリーシート提出と学部試験対策がまさに目の前に控えていることに気付いた。ていうか前から知ってたけれども。ともかく具体的に期限が迫ってくるとテンションが下がる。例えば志望動機や自己PRなどを下書きしていると冗談抜きで吐き気を催す。書かれた産物も書いている人もそれを論評する人も全て気持ち悪い。企業の採用担当者しか見ていないはずなのに過剰に反応する時点で負けている。企業によっては英語での記入を義務付けられたりして、ますます萎える。


それに比べれば試験勉強のいかに楽で退屈で終わりの無いことか。教科書と判例を読んで理解すれば終わり、それ以下でもそれ以上でも無い。しかし全くと言って終わる気がしない。刑法の罪責論とか、結局のところ「一般人の通常の応報感情」の存在が妥当な罪名を確定していくために論理的に要請されており、学説とやらの間で決着をつけるのは千年かかっても無理である。まるで神学。神学であるが故に判例理論を頭から「信仰」すると言う態度が様になるのだ。鰯の頭も信心から、である。どうでもいいけど。


今日の夕方ごろ、誰かの眼球を口に含む夢を見た。見ると相手の目がぽこっと抜けて空洞になっていた。噛んだらゼラチン質だった。とりあえず寝る。

Myths of the Near Future

Myths of the Near Future

バトン・シュミット・ピラミッド

バトンを2年ぶりにしてみる。

1月生まれの大学生、
本を読むことと洋服を買うことと、ジョギングと旅行が好きで、
若干冷めキャラで、
自分の考えを持っててそれをきちんと丁寧に伝えてくれる人が好きで、
地図を速く読むのが特技で、資格は無くて、悩みはあって、
もやしと牛乳が好きで、
嫌いな食べ物っていうものの考え自体があってはいけないことで、
好きな人はいます。
最後に好きな人に一言、
好き好き大好き超愛してる。また京都に遊びに来て下さい。」


割とまともに表明しているつもりが文章にするとどうにも嫌気が差す。




色んな出来事が起こって、それでいて2・3日すると記憶に霧がかかってぼやけてくるのが最近の悩み。メールを返さなきゃいけないと分かっているが、それすら出来ないようではいけない。人間として。

緩やかにテンションが下がっていて、会話がとても少なくて、それでいて浮世離れした読書だけはやめられない。中っていると言って良い。最近も試験勉強と称して憲法の過去問を解いていたら、いきなり「制度」とは何なのかが異様に気になりだしてノートを書く手が止まって何か全部面倒になって図書館で本を借りて一日茫然と読んでいた。

ホーンブック 憲法

ホーンブック 憲法

2年の始めに買わされた憲法の教科書がハルシオン並みの驚くべき睡眠導入効果を発揮することを知り、周囲の学生が900番教室で淡々と精読に励んでいる図を目の当たりにした瞬間、自分は法律の学習に向かないことを悟ったのだけれど、今になって考えれば愚かだった。

世界が狭かったのだ。芦部信喜を泰斗とする「啓蒙憲法学」はもはや主流の地位を滑り落ち、残るはカオスのみ。様々な学者がひとしなみに自らの理論知を示そうと躍起になっているのが楽しい。「各種国家試験対策講座」に限り、あと数十年は現在の「通説」とやらを朗々と講ずるのだろうが。


とりわけ一つ目の本は素晴らしい。「制度保障論」が語られてきた歴史的文脈を辿りつつ、カール・シュミットの感動的な「31年論文」誕生を寿ぐ。後世のシュミット解釈の杜撰さを嘆きつつ、永らく野ざらしにされていたドイツ概念法学の初歩的なジャーゴンの群れを、その黴臭さを損なうことなく取り出し読者に提示することに成功している(と思う)。半分くらい意味不明だったが。

そして何より、法律学のモノグラフィには不釣合いなほど文体が審美的かつペダンティック。例えばこんな感じ。

けれども、オーリウ=シュミットの恒等式を前提にして相互の「制度」概念を同視し、Institution=法人格を有する制度(institution―personne)、Rechtinstitut=法人格を有しない制度(institution―chose)というふうに、直訳的な比較対照を行いながらの釈義を行うと言う喜劇を、その後の研究者に演じさせる遠因を作った点で、ショヌーアの何気ない不用意な言明は罪が重い。

みたいな。名著というかむしろ奇書である。読み進めるにつれて、コトバがおぼろげな像でもって目の前で再演される。変なたとえだが、トランプでピラミッドを作っていく感覚に似ている。何度挫折しても、腑に落ちるまで諦めない。それしか慰め事がないから。

あと何ヶ月かはこういう不透明な日々が続くのかと思うと萎えるが、気にしてもしょうがない。それにしても就職はいつ決まるのだろうか?

フラストレーションの解消法

…最近良く髪の毛が抜ける。小学生の頃の抜毛癖が執念深く自分の毛根を攻撃しているような気がする。取り合えずストレスとか欲求不満のせいにしておくが、何だかなぁ、と言った感じだ。

欲求不満は、であると。物心ついた時点で自我が生まれ、自我が生まれると同時に何かしらの欲望が生まれ満たされることを望むが、当然ながらいつも満たされるわけではないのでフラストレーションが発生する、やっぱ生活って大変だね、みたいな?…ていうかこの解釈の平凡さに我ながらむかついてしまう。誰かほんとうのところを教えて欲しい。

教えて欲しいと言えば、「口唇期固着」これが気になる。要はフラストレーションの典型例を一個剔出したもので、「慢性的に愛情に飢え」「食べることにこだわり」「ガムを噛むのが好き」で「皮肉屋」で「おしゃべり」、その他色々な特徴が列挙されている。wikiとかに。「これって自分の性格に近似してないか??」と思ったが確認する術がないので若干困っている。母親に今更聞くなど、もはや変態である。ちなみに口唇期固着の人間はキスによる快感を求めるらしい。これはノーコメントと言うことにしておこう。


ところで今日誰かから、「唇の厚い人間はキスによる快感が一般よりも大きい」と言う良く分かんない説を聞いた。そこで若干思ったのだが、もし「キスしまくっていると唇が厚くなる」という仮説が成り立つなら、世の口唇期固着の人間はキスを繰り返すことにより快感の無限スパイラルに突入するのではないか。一瞬想像して武者震いがした。もちろん嘘である。アルキメデスもびっくりの永久機関の完成。渡辺淳一よりも薄っぺらい言葉の無駄遣い。


では、欲求不満を抜本的に解消する方法はないのだろうか? 例によって三島の文章を延々引用してみる。相変わらず感動的な文章である。

「認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。(中略) 認識は生の耐えがたさがそのまま人間の武器になったものだが、それで以て耐えがたさは少しも軽減されない。それだけだ」
「生を耐えるのに別の方法があると思わないか」
「ないね。あとは狂気か死だよ」
「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない
(中略)
「美的なもの、君の好きな美的なもの、それは人間精神の中で認識に委託された残りの部分、剰余の部分の幻影なんだ。君の言う『生に耐えるための別の方法』の幻影なんだ。(中略)認識にとって美は決して慰藉ではない。女でもあり、妻でもあるだろうが、慰藉ではない。しかしこの決して慰藉ではないところの美的なものと、認識との結婚からは何ものかが生まれる。はかない、あぶくみたいな、どうしようもないものだが、何ものかが生まれる。世間で芸術と呼んでいるのはそれさ」
「美は……」と言いさすなり、私は激しく吃った。埒もない考えではあるが、そのとき、私の吃りは私の美の観念から生じたものではないかという疑いが脳裡をよぎった。「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ
金閣寺』第8章より

要は行為である。もっと動け、もっと悪あがきしろ、と。美と認識の結婚、すなわち芸術は人間精神に無くてはならないものだが、それだけで生の耐えがたさから解放される訳ではない、と言うことか。だとすれば若い、若すぎる。中学2年生並の精神年齢。


とりあえず明日もねちねちと授業を受けることにする。近所迷惑だがマリリンマンソンを聞きながら寝る。耳が痛い。

企業・官庁説明会の陳腐さと効用について

タイトルが無駄に長いがほとんど意味はない。



自分も遅ればせながら「公務員試験勉強」とやらに参戦してみた。今まで学部の勉強を好きなようにちんたらやっていたため、どうも思うように行かない。判例なんてあんまし覚えてないし、正直フラストレーションが溜まる。細かい条文の知識を問う問題も同様。やっぱ俺向いてないのかな、とか、でも国家公務員の仕事は魅力的だし、択一問題なんて所詮はクイズなんだから割り切ってやれば良いじゃん、とか、ごちゃごちゃ悩むこともしばしばだったりする。ちなみに「魅力的」と言う言葉に皮肉な意味はひとかけらも込められていない。「政治システム」という、ヒトモノカネを絶えず取り込んで収縮・膨脹する怪物の一部になるのは、とても愉快なことだと思うのだ。

あと、大学3年生の特権を享受しよう、ということで企業や官庁の説明会にもいくつか参加してみた。どの社員(あるいは官僚)も自らの仕事を魅力的に語るので迷う。何に向いてるかなんて分かるわけがないから取り合えず数社にエントリして声がかかるのを待つしかないと頭では考えているのに、尚も絞り込もうとして迷う、と言うか。

個人的には、D銀行(グローバルマーケッツ部門)のトレーダーの話が最も優れていたように思った。金融商品の豊富な知識、あるいは世界の経済、政治情勢に関する精度の高い情報を生かしてファンドマネージャと信頼関係を築き、バスケット取引を引き受ける。マネージャは損失発生リスクを転嫁することが出来、トレーダーは自らのテクニック次第で資本を増やすことが出来る。ひいては所属企業の東京市場でのプレゼンスが高まり、さらに風呂敷を広げるなら、東京市場「自体」の活性化にも資するかもしれない。と言うことらしい。


へー、そうですか。すごいですね。カタカナ多いし。

とりあえず皆が十分に合理的であれば、関係者の誰も損をしない魔法のメカニズムではなかろうか(実際にはそんなに甘くないことは当たり前だろうけれど)。


業務説明に来た官僚たちも、「この人たちすごい」と素直に思える人が多かった。何だろう、妙に説得力のあるしゃべり方をするのだ。やや傲慢な語り口がちらほら見られたのも予想の範囲内だった。自分たちは少なくとも個別の政策のプロである、と言う自負心をどの講演者からも感じ取ることが出来た。「私達が議論のたたき台を作り、決めるのは政治家の方々です」みたいな。財務省主計局・主税局の人間はむしろ例外である。彼らは端的に「政治的動物」と言ったところか。


全く以て取り留めがないが、あんまし時間がないので気にしない。自分にも「頑張ろう俺」みたいなモチベが存在することに感動した1ヶ月だった。まだまだ人生は長い。

ボクシング!ボクシング!

どうでもいいことだが、自分はボクシングを始めとする格闘技全般が大好きである。社会人になったら絶対生で観戦してやろう位の気持ち。そして、プロ・アマチュアに関わり無く、格闘技の選手は、少なくとも選手である限りにおいて尊敬している。一切の冷笑的なニュアンス無しで。それだけに、最近メディアを騒がせている亀田一家の話題を目にするとやりきれない気分になる。


ボクシングは至極単純なスポーツだ。リング上で二人の選手が殴りあう、それだけと言えばそれだけ。ではなぜ多くの観客を惹き付けるのか?それは、彼らが真にストイックであるから、また強い選手と自分を重ね合わせて(同一化して)、微妙な快感を得るためである。選手生命を賭して戦っている彼らの前では、私達は卑怯な部外者に過ぎない。部外者とは誰を指すのか?――セコンド、トレーナー、ジムのオーナー、テレビ局、スポンサー、広告代理店、テレビの視聴者、その他一切。部外者は黙って試合を眺めるのが作法である。


内藤と亀田の試合は、前説から試合本番、後日談に至るまで全て痛々しかった。

まず、記者会見が痛い。誰が仕込んでいるのか知らないが、無粋なパフォーマンスは控えめにすべきだ。プロレスみたく机をひっくり返さなかっただけマシだったが。そして、史郎氏やジム、テレビ局によって組み立てられた安易なマッチメークによって大毅自身がやや「井の中の蛙」状態になっていた(ように見受けられた)ことも痛かった。

日々の厳しい練習に耐えている選手は、往々にして周りが見えなくなる時がある。どんな形であれ、勝利を続けていると人は傲慢になる。若ければ尚更。スポーツだけではない、もちろん仕事にも学習にも当てはまる。自分の周りや、あるいは自分自身の中に「」はいないだろうか?大海を知ることの他に彼が成長する術はない。

…つまり大毅の横柄な態度は、とても他人事とは思えなかったのだ。


本番はもっと痛かった。不愉快な実況と解説、会場内に湧き上がる内藤コール、セコンドの無駄な指示、などなど。抗議の電話やネット上での誹謗中傷を含め、周りが余りにもうるさすぎる。一体何に熱くなっていたのだろうか?―――試合の内容に対してではない、これだけは確かである。
ちなみに挑戦者が王者に対しガードを固めて突っ込んでいくこと自体は悪いことではない。サミングレスリング行為は論外だが、弱点である両まぶたを目がけてパンチを打ち込むことは正当な戦略の内に入る。トレーナーの方針により間合いを取ってジャブを打つ練習をしていない選手にとって、ガードを緩めることは命に関わる敗北につながる。勝負は勝負であり、仮に「責任」があるとすれば、それは試合を組んだ方だろう。




まとめよう。ボクシングは高尚であり、選手は尊敬すべきであり、取り巻きは論評に値しない。それにしても割を食うのはいつもリング上の人間なのはなぜだろうか? 内藤はポンサックレックとの再戦に向け、不利な条件でトレーニングを積まないといけないだろうし、亀田兄弟は新しいトレーナーの下で出直しを図ることになるだろう。今以上に苛酷なものかもしれない。素人には知る由もないが。





勝手なシンパシーを日記にしてしまい恥ずかしい、しかし好きなものはしょうがない。そろそろ勉強する。