グレースケール

最近誰かが言っていたことに従い、スマートフォンの画面設定をグレースケールに変えてみた。

 

効果はてきめんで、設定を変えた途端に、画面の色だけではなく、画面の向こうの世界自体が「色あせた」ような、不思議な感覚に襲われると同時に、端末を触りたい衝動がはっきりとおさまった。

 

理由は不明だが、おそらく、画面が白黒になることにより、画面から得られる情報量が減少し、これまでスマートフォンという機器が人間生活の中で良くも悪くも果たしてきた機能を阻害するからだろうと思う。その「機能」とは、私の推測では、カギカッコ付きの、紋切り型の「現実」、既に誰かによって解釈されてしまった「現実」に逃避する機能である。

 

思い返すと、「理想」にも「虚構」にも寄りかかることができなくなった私たちにとって、こうした「現実」への逃避は、行動様式としてはかなり合理的なようにも思われる。

しかしながら、こうした逃避は、曲がりなりにも「価値」や「意味」や「役割」を追求する「ことになっている」社会において、有効な居場所がない。すなわち、逃避した後の逃げ道がない。

こうした局面で人間が取る手段の一つとして、かかる「『現実』への逃避」は、避けがたい運動であると自らに言い聞かせ、この逃避にむしろ積極的に身を委ねることで、元々の自分の「見立て」を正当化するという方法である。葛藤を生まない代わりに、「分かっちゃいるけどやめられない」という症状を引き起こすリスクがある。

 

こうした症状に対する当面の善後策として、冒頭にあげた方法は、一定の効果があると思われる。