スマートフォン

最近の自分の悩みは、知らない間にスマホを使いすぎてしまうことである。だいたい知らない間に1〜2時間が経過していて、無駄な時間を過ごしてしまったという後悔ばかりが胸に込み上げてくる結果になる。

 

誰かが言っていたところによると、スマホを長時間いじるという行為は一種の精神的自傷なのだそうである。要すればパチンコみたいなものだろうか。あれも「何も考えなくて済む」という点でスマホでのネットサーフィンに似ている。

 

自傷が厄介なのは、本人としては、別のストレスを解消するための手段として活用しているため、自分自身の意志では簡単には止められないところである。我が身を振り返ると、物心がついた時から、髪の毛を抜いたり、頭皮をかいてかさぶたを作ったり、爪や指を噛んだり、顎をカクカク言わせたりする癖が一向に治らない。本当に困っているが、20年悩んできたことが今更嘘みたいに消えてなくなる確率は相当低いと考えられるため、私自身は、何か別の方法で気を紛らわせるのが最も合理的であると暫定的に結論づけているところである。

 

何か気を紛らせる方法。そういえば、誰かが、人間の活動はlaborとworkとactionに分類されると言っていたが、この3分類に該当する行為をすれば良いのではないだろうか。「労働する」「絵を描く」「人と会話する」、いずれも立派な代替行動である。「複数のまとめブログを閲覧し続ける」という行為はそのいずれにも分類されないから、長時間やっているとだんだん辛くなってくるのかもしれない。きっと人間の身体レベルで受け付けないのだろう。

 

それでは「読書」はどうなのだろうか。これまでの経験上、どんなにつまらない本や雑誌であっても、読み終わって虚しくなるという現象が発生したことはほとんどない。私自身、元々活字は好きな方だ。そう考えると、ネットサーフィンは、読書と異なり、単に活字を読みたいというだけにとどまらず、actionしたいという欲望を補償するための手っ取り早い行動として依存的に選択される(そしてその欲望は常に充足されない)からこそ、虚しいのかもしれない。

 

この仮説を敷衍すると、通勤電車でスマホをいじっている人が異常に多いのも、この世の中に住む多くの人たちが、actionしたいと欲望する方向に疎外されているからだ、そういう社会に私たちは住んでいるのだ、と言ってみることもできそうではある。ただ、そうは言ったところで、原理的に、その言ったことが、自分にとって、より分別のある行動様式をもたらすとは限らないのではないかとの直観も持っており、ここはもう少し詰める必要があると今は思っている。