*セラピスト
日々自分が考えていることを出力すると言うことは、治療的であるということは、おそらくその通りで、私も気持ちだけは持ち続けている。
できないのは、その余裕がないことに尽きるのだが、年度末の苦しい時期を超え、今ようやくこうしてキーボードを叩く暇が出てきていることをありがたいと思う。
 
年度末は本当に辛かった。自分を通過する案件を一件一件見る必要があり、それでいて周囲の動向にも良く気を配り、自ら役割を引き受けて行く必要がある。それが通常の何倍もの強度の負荷になっているイメージ。やるべきこと自体は社会人としては当たり前の話ではあるのだが、実践は難しい。おそらく、自分が入手した情報を、どう加工し、業務につなげていくか(情報提供するか、するとしたらどこか、指示するか、指示するとしたらいつ誰に何を指示するのか、確認するのか、するとしたらどうやって確認するのか、あるいは確認させるのか、等)という部分で、改善の余地が多分にあるのだろう。物事の隠れた連関に気付くことも重要だ。
もともと上記のような振る舞いが得意な人間は、放っておいても勘所を外さずに仕事ができるのだろうが、多くの得意でない人間にとっては、いかに実践を繰り返して、短所を克服できるかに、職業人生上の成功がかかっている、とは言えるのだろう。成功した後に何が待っているのかは不明だが。
 
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最相葉月の「セラピスト」を買って読んだ。中井久夫河合隼雄が編み出した治療技法について精密な取材を行ったという部分に惹かれたのだった。
 
実際読み始めると、どのようにして人は精神疾患が治るのか、という問題意識が作品中を強く貫いており、一気に読むことができた。特に印象に残ったのは、読み進めるにつれて、筆者自身が、なぜこのテーマで文章を書こうと思ったのか、迷いが見え始めるところ。その末に、自己抑制が効いた文体と表裏一体になった欲求というか欲望というか、私の話すことを聞いて欲しい(けれどもどうせ聞いてもらえない)などという苦しみがあったこと、そして「自分自身が生きるため」にこの本を書いているという筆者自身の思いが、本の最後に一気に吐露されるのだが、私も思わずもらい泣きしそうになった。これは感動したね。
 
筆者自身が風景構成法を受けるなど、ノンフィクションでありながら、極めて私的な治療的な経験が所々に織り込まれているところが、この作品をとても鮮やかなものにしている。
読んでいて気持ちがほっとする、そういう本であった。