グレースケール

最近誰かが言っていたことに従い、スマートフォンの画面設定をグレースケールに変えてみた。

 

効果はてきめんで、設定を変えた途端に、画面の色だけではなく、画面の向こうの世界自体が「色あせた」ような、不思議な感覚に襲われると同時に、端末を触りたい衝動がはっきりとおさまった。

 

理由は不明だが、おそらく、画面が白黒になることにより、画面から得られる情報量が減少し、これまでスマートフォンという機器が人間生活の中で良くも悪くも果たしてきた機能を阻害するからだろうと思う。その「機能」とは、私の推測では、カギカッコ付きの、紋切り型の「現実」、既に誰かによって解釈されてしまった「現実」に逃避する機能である。

 

思い返すと、「理想」にも「虚構」にも寄りかかることができなくなった私たちにとって、こうした「現実」への逃避は、行動様式としてはかなり合理的なようにも思われる。

しかしながら、こうした逃避は、曲がりなりにも「価値」や「意味」や「役割」を追求する「ことになっている」社会において、有効な居場所がない。すなわち、逃避した後の逃げ道がない。

こうした局面で人間が取る手段の一つとして、かかる「『現実』への逃避」は、避けがたい運動であると自らに言い聞かせ、この逃避にむしろ積極的に身を委ねることで、元々の自分の「見立て」を正当化するという方法である。葛藤を生まない代わりに、「分かっちゃいるけどやめられない」という症状を引き起こすリスクがある。

 

こうした症状に対する当面の善後策として、冒頭にあげた方法は、一定の効果があると思われる。

 

 

 

スマートフォン

最近の自分の悩みは、知らない間にスマホを使いすぎてしまうことである。だいたい知らない間に1〜2時間が経過していて、無駄な時間を過ごしてしまったという後悔ばかりが胸に込み上げてくる結果になる。

 

誰かが言っていたところによると、スマホを長時間いじるという行為は一種の精神的自傷なのだそうである。要すればパチンコみたいなものだろうか。あれも「何も考えなくて済む」という点でスマホでのネットサーフィンに似ている。

 

自傷が厄介なのは、本人としては、別のストレスを解消するための手段として活用しているため、自分自身の意志では簡単には止められないところである。我が身を振り返ると、物心がついた時から、髪の毛を抜いたり、頭皮をかいてかさぶたを作ったり、爪や指を噛んだり、顎をカクカク言わせたりする癖が一向に治らない。本当に困っているが、20年悩んできたことが今更嘘みたいに消えてなくなる確率は相当低いと考えられるため、私自身は、何か別の方法で気を紛らわせるのが最も合理的であると暫定的に結論づけているところである。

 

何か気を紛らせる方法。そういえば、誰かが、人間の活動はlaborとworkとactionに分類されると言っていたが、この3分類に該当する行為をすれば良いのではないだろうか。「労働する」「絵を描く」「人と会話する」、いずれも立派な代替行動である。「複数のまとめブログを閲覧し続ける」という行為はそのいずれにも分類されないから、長時間やっているとだんだん辛くなってくるのかもしれない。きっと人間の身体レベルで受け付けないのだろう。

 

それでは「読書」はどうなのだろうか。これまでの経験上、どんなにつまらない本や雑誌であっても、読み終わって虚しくなるという現象が発生したことはほとんどない。私自身、元々活字は好きな方だ。そう考えると、ネットサーフィンは、読書と異なり、単に活字を読みたいというだけにとどまらず、actionしたいという欲望を補償するための手っ取り早い行動として依存的に選択される(そしてその欲望は常に充足されない)からこそ、虚しいのかもしれない。

 

この仮説を敷衍すると、通勤電車でスマホをいじっている人が異常に多いのも、この世の中に住む多くの人たちが、actionしたいと欲望する方向に疎外されているからだ、そういう社会に私たちは住んでいるのだ、と言ってみることもできそうではある。ただ、そうは言ったところで、原理的に、その言ったことが、自分にとって、より分別のある行動様式をもたらすとは限らないのではないかとの直観も持っており、ここはもう少し詰める必要があると今は思っている。

 

はてなブログに移行した

全く私的なことであるが、なんとなくはてなダイアリーからはてなブログに移行することにした。知らない間に世の中はだんだん便利になり、現にこの文字列も、ノートPCではなくタブレットにつないだ無線キーボードで打鍵している。

 

ご丁寧に、日記の移行時に、はてなから「テーマを決めると長続きします」との示唆があった。改めて考えると、自分が生存している記録を世の中に残すことが日記の主目的であると私は思っており、極力継続しやすいテーマであることを優先させる必要がある。自分の中で何か言いたい時というのはすなわち心の中でモヤっとした時に他ならないため、そのきっかけを大事にする必要があると思われる。

 

と、いうわけで、「文句を言いつつ知識をひけらかす」というコンセプトを継続することとしたい。


大森靖子「TOKYO BLACK HOLE」MusicClip

 

SMDP

最近あまり良いことがない。
時計は壊れるし、上司からは無視されるし(あんまりなので先輩にも相談したレベル)、初めて行った散髪屋では、抜毛癖が良くないことを再三にわたって指摘された挙句前髪ぱっつんで仕上げられるし、とあるメールの返信は来ないし。

憂鬱で日中ふせって、今になって躁的に神経が昂ぶってきたので、せっかくなので現状を記録しようと思い、iphoneから更新しようとしているが、端末購入後一年近く経つにもかかわらず未だにフリック入力に慣れないせいで激しくフラストレーションが溜まり、画面をいじくる人差し指が小刻みに震えてちょっと自分でもやばいかな、という気もするが気にしないこととする。

        1. +

最近になって下田美咲という女性に注目している。コールを振り続ける動画等を投稿し、幾多のページビューを稼いだりしている人だ。

注目している理由は単純で、動画自体に妙に迫力があるのだ。ネットサーフィンに現を抜かしたあとに訪れがちな空虚感が、彼女とその友人たちが出演する動画から漂ってこない。これは自分の中ではちょっとした出来事に分類される。

自分でも何をどう読み取ったらそういう事態に至るのか、正直よく分からない。ただまぁ何か言えることがあるとすると、一つ一つの動画の背景に、単なる自己顕示欲を超えた、投稿者自身の思想の片鱗が垣間見える…ような気がする。「コールは運動の一種である」というメッセージを動画の冒頭の前説に持ってきたり、「嫌なことを回避するためには妥協を惜しまない」などといった発言をしたりするところからもそれが伺える。

この投稿者は、言うまでもなく、場を盛り上げることに強い関心を持っている。今はまだ、個々の実践を動画に収めて投稿するに留まっているが、そのうち「場」とは何か、「盛り上げる」とは何か、と言うテーマについて何事かを語り始めるんでないかという予感すらする。まぁそれはそれで面白そうだから良いのだけれど。

*セラピスト
日々自分が考えていることを出力すると言うことは、治療的であるということは、おそらくその通りで、私も気持ちだけは持ち続けている。
できないのは、その余裕がないことに尽きるのだが、年度末の苦しい時期を超え、今ようやくこうしてキーボードを叩く暇が出てきていることをありがたいと思う。
 
年度末は本当に辛かった。自分を通過する案件を一件一件見る必要があり、それでいて周囲の動向にも良く気を配り、自ら役割を引き受けて行く必要がある。それが通常の何倍もの強度の負荷になっているイメージ。やるべきこと自体は社会人としては当たり前の話ではあるのだが、実践は難しい。おそらく、自分が入手した情報を、どう加工し、業務につなげていくか(情報提供するか、するとしたらどこか、指示するか、指示するとしたらいつ誰に何を指示するのか、確認するのか、するとしたらどうやって確認するのか、あるいは確認させるのか、等)という部分で、改善の余地が多分にあるのだろう。物事の隠れた連関に気付くことも重要だ。
もともと上記のような振る舞いが得意な人間は、放っておいても勘所を外さずに仕事ができるのだろうが、多くの得意でない人間にとっては、いかに実践を繰り返して、短所を克服できるかに、職業人生上の成功がかかっている、とは言えるのだろう。成功した後に何が待っているのかは不明だが。
 
++++
最相葉月の「セラピスト」を買って読んだ。中井久夫河合隼雄が編み出した治療技法について精密な取材を行ったという部分に惹かれたのだった。
 
実際読み始めると、どのようにして人は精神疾患が治るのか、という問題意識が作品中を強く貫いており、一気に読むことができた。特に印象に残ったのは、読み進めるにつれて、筆者自身が、なぜこのテーマで文章を書こうと思ったのか、迷いが見え始めるところ。その末に、自己抑制が効いた文体と表裏一体になった欲求というか欲望というか、私の話すことを聞いて欲しい(けれどもどうせ聞いてもらえない)などという苦しみがあったこと、そして「自分自身が生きるため」にこの本を書いているという筆者自身の思いが、本の最後に一気に吐露されるのだが、私も思わずもらい泣きしそうになった。これは感動したね。
 
筆者自身が風景構成法を受けるなど、ノンフィクションでありながら、極めて私的な治療的な経験が所々に織り込まれているところが、この作品をとても鮮やかなものにしている。
読んでいて気持ちがほっとする、そういう本であった。

なんかもう前の記事を書いてから二年以上が経った。住所も変わった。課も二回変わった。過去記事には下らないコメントが付き、感慨深い。

むなしいのは相変わらずで、それに蓋をするために活動しているが、簡単に蓋が外れるので困っている、というか苛立っている。蓋が外れるというか、底が抜けるというか。

今の仕事は楽ではないが、底が抜けた時の、上記の得体の知れないモヤモヤに比べればなんでもない。それは、空虚というよりも、もっと具体的に、自分の中で痛みを伴っている。

何も変わっていないが、それを言い出すと物心ついた時から何も変わっていない。悲劇のヒロインに浸ろうとする欲望は醜悪であり幼稚だが、それも私の一面なのであれば、肯定してあげることもまた大事である。


自分語りはこれくらいにして、次からは、最近観た映画やらを文章にしようと思う。では。

八日目の蟬


どうもお久しぶりです。私は元気です。
日々の生活は淡々と過ぎていき、不義理を重ね、仕事は適当にさばき、時間がないから無駄に金が溜まるという、有体に言えば人間性が磨耗した人生に向かって着実に一歩ずつ歩んでいるのだが、それは今日の日記で言いたいことではない。
タイトルの小説を読み、ついでに映画を観たところ、合計4回号泣し、自分でもびっくりしたのだった。

      1. +


小説の方は、読む人を安易に感動させてくれないというか、「娘」に対する主人公の女性の有り余る愛情の背後に、女性自体の暮らしぶりのみじめさが常について回っている。小豆島での平穏な生活でも、その破綻が遠くない未来に起こるのではないかという不安が彼女の心にひそんでいるように思われ、要するにとてももどかしい展開なのだ。


などと思いながらなおも読み進み、娘の成長した後のさまざまな葛藤に、あるものには「こういう、目の前の現実感が希薄になる感覚は分かる」とか「これは男の俺には分からない」などと思いながら一気に読み終わった。
で、しばらく呆然とした後、最後の場面を思い出して不意に涙が噴出し、数分間しゃくりあげ続けることとなった。


映画の方はもっとひどかった。
土曜の夜のガラガラのレイトショーに一人で出かけ、上映中、最初は小説版を頭の中で再生しながら、物語の相違点を割と冷静にチェックしていたのだった。(小説とは異なり、二人の主人公のエピソードが何度も交錯するので映像としてそこそこ面白い)しかし、物語の中盤以降、永作博美が娘を自転車に載せて坂道を駆け下りるシーンで早くも泣きそうになり、フェリー乗り場での別れ、井上真央が写真館を訪問するシーンで涙腺が急速に破壊されてしまった。


予めストーリーを知っているにもかかわらず、永作の刻々と移り変わる表情を見ていると、こちらもひそかに感情が昂ってきて、「あかん、これは泣いてまうやろ」的な気持ちになったのだった。

      1. +


嗚咽する理由ははっきりしていて、それは作品が母との関係を問うものだからだと思う。血がつながっているか否かにかかわらず、母は、その人の自我が生まれるための前提のようなものであり、葛藤のない親子関係などない。それでも母性は、どのような形であれ(かつて社会的に望ましいものとされていた基準に合わなくとも)、存在するのだろう。原作者も、脚本家も、俳優も、監督も、その辺りを分かった上で、当然、単純な母性の礼賛ではなく、優しさや身勝手さが混ざった宿命として描きたかったんだろう、と思った。



…小賢しい解釈はさておき、また小説を読んで、いろいろ伏線が出てこないか調べてみようと思う。泣きまくったので、気持ちもすっきりしたことだし、明日もがんばろう。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)