八日目の蟬


どうもお久しぶりです。私は元気です。
日々の生活は淡々と過ぎていき、不義理を重ね、仕事は適当にさばき、時間がないから無駄に金が溜まるという、有体に言えば人間性が磨耗した人生に向かって着実に一歩ずつ歩んでいるのだが、それは今日の日記で言いたいことではない。
タイトルの小説を読み、ついでに映画を観たところ、合計4回号泣し、自分でもびっくりしたのだった。

      1. +


小説の方は、読む人を安易に感動させてくれないというか、「娘」に対する主人公の女性の有り余る愛情の背後に、女性自体の暮らしぶりのみじめさが常について回っている。小豆島での平穏な生活でも、その破綻が遠くない未来に起こるのではないかという不安が彼女の心にひそんでいるように思われ、要するにとてももどかしい展開なのだ。


などと思いながらなおも読み進み、娘の成長した後のさまざまな葛藤に、あるものには「こういう、目の前の現実感が希薄になる感覚は分かる」とか「これは男の俺には分からない」などと思いながら一気に読み終わった。
で、しばらく呆然とした後、最後の場面を思い出して不意に涙が噴出し、数分間しゃくりあげ続けることとなった。


映画の方はもっとひどかった。
土曜の夜のガラガラのレイトショーに一人で出かけ、上映中、最初は小説版を頭の中で再生しながら、物語の相違点を割と冷静にチェックしていたのだった。(小説とは異なり、二人の主人公のエピソードが何度も交錯するので映像としてそこそこ面白い)しかし、物語の中盤以降、永作博美が娘を自転車に載せて坂道を駆け下りるシーンで早くも泣きそうになり、フェリー乗り場での別れ、井上真央が写真館を訪問するシーンで涙腺が急速に破壊されてしまった。


予めストーリーを知っているにもかかわらず、永作の刻々と移り変わる表情を見ていると、こちらもひそかに感情が昂ってきて、「あかん、これは泣いてまうやろ」的な気持ちになったのだった。

      1. +


嗚咽する理由ははっきりしていて、それは作品が母との関係を問うものだからだと思う。血がつながっているか否かにかかわらず、母は、その人の自我が生まれるための前提のようなものであり、葛藤のない親子関係などない。それでも母性は、どのような形であれ(かつて社会的に望ましいものとされていた基準に合わなくとも)、存在するのだろう。原作者も、脚本家も、俳優も、監督も、その辺りを分かった上で、当然、単純な母性の礼賛ではなく、優しさや身勝手さが混ざった宿命として描きたかったんだろう、と思った。



…小賢しい解釈はさておき、また小説を読んで、いろいろ伏線が出てこないか調べてみようと思う。泣きまくったので、気持ちもすっきりしたことだし、明日もがんばろう。

八日目の蝉 (中公文庫)

八日目の蝉 (中公文庫)