腑抜けども、悲しみの愛を見せろ

つい最近映画版が公開されたことを知り、小説のほうを読んでみることにした。小説を読むのは久しぶりだったが、インパクトのあるタイトルにも負けず、割と面白かったので思ったことを書いてみる。ちなみに作者の本谷有希子の「本業」は劇作家であり、この作品も、自身の主催する劇団のために書き下ろした脚本をノベライズしたものである。

  • 神の目線

読んでて始めにびっくりするのが、語り手たる本谷が登場人物をいじくる「神の目線」のあざとさだった。小説内には、自意識過剰な女優志望の女、漫画を描くことの好きな観察者たる妹、人生で敗北を重ねてきた三十路の人妻、それと変に神経質で優しくて暴力的な夫が登場するが、彼らはまるで雑魚の如くシナリオに弄されている。4人の「腑抜けども」はふとしたきっかけで一箇所に再会し、「妹」を除き絶望と呼ぶに相応しいエンディングを迎える。突き放した、三人称の語りは何を意味しているのかと思った。

  • 自意識と言う逆説

「情熱」とか「世界の果て」などと並んで、およそ文学と名のつく芸術の、最も基本的なテーマの一つに「自意識」が挙げられる。「セカイ系ラノベ」だか「私小説」だか、良く分かんない分類を引き合いに出すまでもなく、小説家は「自分」とは何かと言うことをうっとうしいくらい語りたがるものである。本谷のこの作品も例外ではない。

やっぱりあいつはあたしの価値も分からないようなクズだった。あいつはしょせん生きていても仕方のない男だった。クズはクズ同士で楽しくやれば良い。(中略)私は浮いたから辞めさせられた。一人だけ才能があったから妬まれた。あたしはあいつらとは違う人間。唯一無二の女優。


「自意識」とは厄介な代物である。人は皆、「自分は、他の人とは違う特別なモノを持っている」と思っている、もっと正確に言えばそう「欲望」している。そしてこうした欲望がとても陳腐で普遍的であることもまた、良く知られた事実である。なぜか?それは欲望を駆動する最も基本的なメカニズムが「主体の欠如」にあるから、言い換えれば、自意識のまさに中核に「コトバ」という巨大な他者が埋め込まれているからである。主体の中心には普遍的な他者があり、主体にとってそれは「欠如」と受け取られる。


その意味で、私達は「不完全なナルシスト」であり、他者と言う「欠如」を欲し、「欠如」を埋め合わせるべく他者の欲望を欲望するのである。だから欲望が互いに似通ってくるのである。似ているから何となくうっとうしく感じられてしまうのである。どこぞのミートホープが腹立たしいと同時に妙に興味深いのは、彼の貨幣(=他者の欲望)への愛が何だか突き抜けているからである。常軌を逸したものに人は惹かれるのだ。

  • 表現することの特権

「自分らしくありたい」という欲望を満足させる一つの手段に「表現」がある。マークシティ前で歌を歌ったり、絵を描いたり、詩を書いたり、同人誌を発行したり、mixiに写真を投稿したり日記を書いたりするのだ。ありとあらゆる表現は、外見と内面の区別を設定し、その「内面」を外に顕在化させる役割を果たす。福田恆存が言っているように、「全ての芸術は仮面の告白」なのだ。


作中の主人公も、優れた容姿を盾に女優を目指し上京する。が、才能がないので挫折する。芸術を志す者は、ギャラリーが多ければ多いほど興奮するのが常だが、それで飯を食っていけるのはそのうちごく一握りの特権的な人間だ。表現は人間の最も基本的な欲望の一つであり、表現によって顕れる自意識は多くの場合陳腐である。表現欲と貨幣愛を同じ行為によって充足せしめることは「いいとこ取り」である。


みんなやりたがるから儲からないという、当然過ぎて逆にピンとこない事実を、この小説は相当グロテスクかつ婉曲的に「表現」している。表現者としての才能を持たない「姉」と、持っている「妹」に作者が与えたそれぞれの結末はかなりショッキングである。ネタバレになるが、妹に与えられた才能は漫画だけではなかったのだ。



ここまで来ると、作者が三人称を採用した理由も何となく分かる。「私は自意識に潜む逆説を手玉に取れる芸術家である」という、一人の職業作家としての自負と欲望を、彼女はこの作品に投影したのだ。主人公と同一化していては決して成就し得ない欲望を、他でもない「コトバ」、つまりは大いなる「他者」を用いて成し遂げようとした。大げさに言うとそういうことである。


小説を読むか劇か映画を観ないと内容が分からないような気がするが、あまり気にしていてもしょうがない。レビューって何?