鉄ヲタ

先輩と二人で何となくノリで長野と新潟に行って来た。どことなく気だるく、暇だったので内省にふけっていた。以下の日記は完全に自己満足である。

  • 鉄道ファンが多かったこと

ムーンライト信州と普通列車を乗り継いで長野に行った。飯山線を使って戸狩野沢温泉に行ったのだが、さして珍しくもないキハ110系200番台の車両写真を熱心に撮影している鉄道ファンがいた。耐用年数を大幅に過ぎた、廃車間近のキハ52系100番台(のエンジン音)に熱狂するのなら何となく分からないでもないが、変な人もいるものだ、と考えていた。


JR東日本管内に来るならせめてキハ40-500だろう…などと下らない感想を漏らしている後も続々とカメラを持ったおっさんが集合し始め、越後川口駅に着いたころには何だかそれらしき小太り中背の人々の数が臨界点に達したのか、もはやアメーバのごとく緩やかに凝集し、ホームの相当部分を占拠していた。
鉄道の好きな大人は、何かと揶揄されやすい存在ではあるが、大勢になると不思議と力を発揮するものである。異形の猛者の集団とでも言おうか。彼らの大半は小出駅只見線に乗り換えていった。

  • エネルギーが跳ね返されたこと

どこもかしこも、美しく、退屈で、終わりのないダンスのような景色だった。戸狩で降りてその辺を歩いていたら、交差点にいたおばさんに思いっきりガンを飛ばされた。今まで見た事のない挙動不審の男がその辺を徘徊していたら確かに気になるだろう。


渋谷のセンター街や図書館にいると、自分の本来持っている(と感じている)エネルギーが、スポンジのごとく周囲に吸収されるような感覚を味わうことがあるが、ここは別だった。エネルギーが発散されずに内に溜め込まれるような気がした。


ふと、中原昌也の小説の何でもない一節を思い出した。

「くだらない猥褻な図画や言葉が書き込まれた煉瓦の壁が崩れ落ちて、瞬時に二百三十八人の子供たちが死亡」『あらゆる場所に花束が……』より

平和な日本の夏の風景を眺め、じりじりと暗転したらそれはそれで一種のカタルシスだろう、とか何とかもっともらしい理屈をこねる人の精神年齢は、もしかするとその辺の中学生と大差ないのかもしれなかった。もうハタチなのに。


小出も、六日町も、越後湯沢も、水上でもそうだった。人通りのない商店街で、シャツを着たおっさんがしゃがんでぶつくさ呟いていたりする光景を見る度にホッとしつつ何だか無性に苛々していた。蒸し暑さが様々な感情の亢進に拍車をかけていた。


寮に帰ったら男が10人くらい集まって酒を飲んでいた。混ざってビール飲んで酔っぱらって日記書いて寝た。