ジョジョ

夏学期にやっていた文学部宗教学科の特殊講義が終わったので打ち上げらしきものに参加してきた。


色々話してて思うのが、詰まるところ個人個人の問題意識ってかなり狭い範囲の中に収束してくるよな、てことだった。3年、4年になってくると何だかせっつかれたように未来を心配し始める。


自分なんかは、子供の頃から評論家とか社会学者に憧れていて、洗練されたオリジナルの解釈装置を駆使して社会を眺めたい、冷ややかと言われても良いから「この世の中」に対して仮借ない分析を加えたい、という見果てぬ夢があり、それをいつか実現するために偉大な先人たちの成果を過去何年にもわたってつまみ食いしてきたが、そろそろそんな戯けたことを、ある種のユートピアとして心に確保している時期は過ぎたのかもしれないと本気で思い始めた。欲望だけで人は巫女の視点を獲得できないし、中途半端に超然としたモノの見方は、正直社会に出ていく上で害悪ですらある。努力と才能と、何より半端ない強さがアカデミックな世界で生き残るためには必要なのかも、と思う。


ただ「眺める」営みに淫する事が自分に不可能ならば、何か「教養のように見えるもの」にうつつを抜かすよりも、試験用の法律の知識を馬鹿みたいに丸暗記したほうが自分の未来の役に立つ、かもしれない。いやきっとそうに違いない。多くの人間は、自らのやろうとしている事にとかく「意味」やら「根拠」を求めようとし、それが見つからないと途端に萎えてしまう。しかしそんな理屈をこねてぐずぐずしている暇が最近ない。善意で舗装されたスノビズムへの道から抜け出すために残された時間は、多いようで、少ない。


飯の種が上から降ってきたら何も問題はないのだけれど、残念ながら不労所得は無いし、発生する気もしない。むしろ所得がこの先10年間相殺され続ける。「確固とした目標がないとモチベ上がんない」けど取りあえず前に進むしかねぇよ、俺にもっとプレッシャーをくれ、そんな気分。



…一応自分の名誉のために言っておくと、ろくでもないことをぐだぐだ考えていたのは打ち上げの間ではなく、その後。念のため。