ありきたりな意見

久間とかいうおっさんが辞任した。新聞でさくっと確認しながらも、何だか釈然としない気持ちが残った。辞任の引き金になったのは公明党首脳部の圧力なのではないか、そしてそのことは端的に言って「良くない」のではないか、そう思ってしまう。

最近、日本の仏教界の間では「行動する仏教(Engaged Buddhism)」という理念が流行っている、らしい。社会参画仏教とも訳される。ベトナム出身の禅僧であるティク・ナット・ハンが提唱した理念で、仏教国ではない欧米で大いに反響を呼び、日本に輸入されるに及んだ。


彼に代表される、Engaged Buddhismの理屈を極めて雑に整理すると以下の様になる。


世界中のあらゆるものは、全て関係性の網の目の中で存在しており(縁起)、それ自身で独立に存在しているものはない(無我)。

ところで、私達の周りには数限りない苦悩が満ちている。人が生きると言うことは「苦」である(苦諦)。

それらの苦には必ず原因があり、原因を取り除くことによって人は悟りの境地に入ることが出来る(集諦・滅諦)。

縁起の世界に生きる私達は、苦悩する者との間に「縁」があると気付いたとき、その苦悩の原因を取り除き、救済しようとする慈悲心が働くはずである(衆生縁)。


私達は、縁起や無我の原理を日々の生活に取り入れるだけではなく、具体的な「苦」から人々を救うべく社会に働きかけていかなければならない。


最後の一点が、既存の仏教とEngaged Buddhismを分けるメルクマールになっている。創価学会立正佼成会が積極的に教義に取り入れているのもむべなるかな、教師によると最近では浄土真宗(大谷派)も興味を示しているそうだ。

しかし、この理屈は少々危うい。運動が政治システムをも取り込んだとき、政教分離の原則は踏みにじられる。ティク・ナット・ハン自身は、様々な信仰体系の中で仏教が最も優れているとは決して言っていないが、既存の教団がその事を知って知らない振りをすることは往々にしてある話である。


宗教や思想と言った類は、個々人が生きていくうえでの行動規範を提供する分には全く有益なモノだが、目の前の現実、社会を変革するための政治的綱領として使ってはいけない。というのも、政治が、個人のもつ価値観が多様であること、優劣を比べられないことを前提として、その中でいかに「合理的なもの」を追求するのかという試みであるのに対し、宗教は、一定の公準から出発して信仰の体系を作り上げ、「善きもの」を追求する試みであるからだ。「認識」より先に「ルール」が来てしまっているのだ。


日々生成しては消えていく、潜在的な「問題群」の中から何をすくい上げ、政治的争点に据えるか、そのモノサシが「宗教」であった場合、政治のプロセスにおいて特定の信念を共有しない「他者」への攻撃は、残念ながら激しいものにならざるを得ない。それは、およそ人を信じ込ませるチカラを持った思想が抱える内在的な躓きの石である。


ナショナリズムマルクス主義キリスト教右派、その他諸々。そういやパワー・フォー・リビングは胡散臭かったな。あれの元締めであるアーサー・S・デモス財団は、プロテスタント福音派団体を通じて巨額の政治献金を共和党に差し出しているらしい。。。全く以て油断も隙もない奴等だ。…

  • 問題発言?

なーんてことを最近ごちゃごちゃ考えてたら久間が辞めてしまった。

彼を、過去の「問題発言」閣僚と一緒にしてはいけない。先の大戦や植民地支配を否認したり、正当化する発言をし、マスコミに叩かれ、挙句「迷惑をかけた」と言って辞める残念な人間は多数いた。彼らの頭の中には、被害者たるアジアの人民に応答する(=責任を負う)、というモチーフはこれっぽっちもなかった。一国平和主義にも似た偏狭なナショナリズム、つまりはただの信念を一瞬振りかざしてすぐに引っ込める、割とセコいことをしてきたのだった。


久間は違う。彼は過去の歴史に関して政治的な「解釈」を施したのであり、その妥当性はさておき、発言自体に道義的責任を負わせるのはもともと筋違いである。だから始めは撤回する気などさらさらなかったし安倍も擁護に回った、はず。問題発言か何だか良くわかんない言葉が政治問題化し、一国の安全保障を司る大臣のクビが飛ぶ、と言うのはやっぱりどう考えても「良くない」ことであり、そこに至るプロセスに公明党の強硬な姿勢が影響したとすれば、さらに「良くない」と感じる。「政治」ってそんなに軽く動いちゃっていいんだろうか。ほんと謎である。


まぁ、とにかくそういうこと。ありきたりな意見だが思ったことは言おうと思った。