ステイディアム・アーケイディアム

ちなみにタイトルと本文の内容は全く関係が無い。
2月に入ってから、試験勉強くらいしかする事が無くなった。用事は何気にあって退屈はしないのだけれど…何だかなぁ、と言った感じだ。日々、SLIPKNOTを聴いて憂さ晴らしをするしかない。割とキレ気味の歌詞が大変素晴らしいと思う。


早い話、勉強しててもつまらないので音楽聴きながら本ばかり読んでいる、ということか。そう、最近面白いことが書いてあったのでぐだぐだ考えてみた。
人のモノの考え方は主に「不安ベースの思考」と「内発性ベースの思考」の二つに分かれるらしい。何かしらの規範を内面化し、「これはしちゃいけないこと。自分以外の他者に害を加えてしまうから。だから俺はしない」とか、「これをしないと将来の俺は無い。だからやらなきゃいけない(でもやりたくない)」のような考え方が前者。「不安ベース」と言うと聞こえは悪いが、予め定まっている(とされている)社会のルールもしくは仕組みに則ってものを考えると言う点で安定的といえる。ちなみに「俺」の部分には別の言葉がいくらでも入る。
それに対し、後者は「俺が自由に振舞ったり、しゃべったりしても、そこには俺の属しているコミュニティの性格が刻み込まれている」という信念を持ってものを考える。「俺の行動、価値観は仲間内で認められている」と考え(もしくは思い込み)、「〜しなきゃ」ではなく「〜するんだ」という言葉を使う。自分の「内発性」を信用していると言える。
ちなみにあと一つ、「特に何も考えない」と言うものがあるが、これは敢えて無視する。


で、この両者にはもちろん限界がある。「放っておくとバラバラになる人たち」をまとめるルール、「何が良い事で、何が悪いこと」かを峻別するルールを正当化する根拠をどんどん上にさかのぼって考えても当然ながら限界が無い。ルールとか正義とか権利とかいったものは、神や自然が与えるものじゃなくて、人間の作為で生み出されたものだからだ。「あーしろ、こうしろ」と迫る人に対し、「そういうお前はどうなんだ」と突っ込みを入れる余地は常に生じる。
後者だってそう。「俺のものの考え」を共有しない他者(お前)が現れると、「内発性」に対する信用が失われる。「お前はお前、俺は俺」で社会が回らないことは普通に考えて分かる。価値観がひどく対立したときに、それでも同じ集団を維持するだけの強度をこの考えが持っているか、割と怪しい。自分と他人の立場を置き換えて「考え」がぶれるようなら限界がある。


だからか知らないが、世の中をあーだこーだと「批評」する新聞、テレビ、雑誌は多かれ少なかれアイロニカルなものが多い。とある大臣のしょうもない発言に対する反応でもそれが伺われる。方向は違えど、妙にヒステリックな人、妙に憂いている人もいるにはいたけれど。自分はどうだろう?シニカルな人間ほど、葛藤を「言葉による批判」ではなく「良く分からない叫び」で表出しようとする。決して表現ではない。


冒頭のSLIPKNOTに話を循環させようとしたが、若干無理があったようだ。今からバイト。