ボクシング!ボクシング!

どうでもいいことだが、自分はボクシングを始めとする格闘技全般が大好きである。社会人になったら絶対生で観戦してやろう位の気持ち。そして、プロ・アマチュアに関わり無く、格闘技の選手は、少なくとも選手である限りにおいて尊敬している。一切の冷笑的なニュアンス無しで。それだけに、最近メディアを騒がせている亀田一家の話題を目にするとやりきれない気分になる。


ボクシングは至極単純なスポーツだ。リング上で二人の選手が殴りあう、それだけと言えばそれだけ。ではなぜ多くの観客を惹き付けるのか?それは、彼らが真にストイックであるから、また強い選手と自分を重ね合わせて(同一化して)、微妙な快感を得るためである。選手生命を賭して戦っている彼らの前では、私達は卑怯な部外者に過ぎない。部外者とは誰を指すのか?――セコンド、トレーナー、ジムのオーナー、テレビ局、スポンサー、広告代理店、テレビの視聴者、その他一切。部外者は黙って試合を眺めるのが作法である。


内藤と亀田の試合は、前説から試合本番、後日談に至るまで全て痛々しかった。

まず、記者会見が痛い。誰が仕込んでいるのか知らないが、無粋なパフォーマンスは控えめにすべきだ。プロレスみたく机をひっくり返さなかっただけマシだったが。そして、史郎氏やジム、テレビ局によって組み立てられた安易なマッチメークによって大毅自身がやや「井の中の蛙」状態になっていた(ように見受けられた)ことも痛かった。

日々の厳しい練習に耐えている選手は、往々にして周りが見えなくなる時がある。どんな形であれ、勝利を続けていると人は傲慢になる。若ければ尚更。スポーツだけではない、もちろん仕事にも学習にも当てはまる。自分の周りや、あるいは自分自身の中に「」はいないだろうか?大海を知ることの他に彼が成長する術はない。

…つまり大毅の横柄な態度は、とても他人事とは思えなかったのだ。


本番はもっと痛かった。不愉快な実況と解説、会場内に湧き上がる内藤コール、セコンドの無駄な指示、などなど。抗議の電話やネット上での誹謗中傷を含め、周りが余りにもうるさすぎる。一体何に熱くなっていたのだろうか?―――試合の内容に対してではない、これだけは確かである。
ちなみに挑戦者が王者に対しガードを固めて突っ込んでいくこと自体は悪いことではない。サミングレスリング行為は論外だが、弱点である両まぶたを目がけてパンチを打ち込むことは正当な戦略の内に入る。トレーナーの方針により間合いを取ってジャブを打つ練習をしていない選手にとって、ガードを緩めることは命に関わる敗北につながる。勝負は勝負であり、仮に「責任」があるとすれば、それは試合を組んだ方だろう。




まとめよう。ボクシングは高尚であり、選手は尊敬すべきであり、取り巻きは論評に値しない。それにしても割を食うのはいつもリング上の人間なのはなぜだろうか? 内藤はポンサックレックとの再戦に向け、不利な条件でトレーニングを積まないといけないだろうし、亀田兄弟は新しいトレーナーの下で出直しを図ることになるだろう。今以上に苛酷なものかもしれない。素人には知る由もないが。





勝手なシンパシーを日記にしてしまい恥ずかしい、しかし好きなものはしょうがない。そろそろ勉強する。