変わらないもの

先週の何かしらのミーティングで、自分はひどく酒を飲んだりしていて、記憶が一部飛んでいたが、ちょうどその間、自分は池袋の雑踏で


「愛されたい、愛されたい」


とわめいていたらしかった。そのことを今日誰かから聞いて少し笑った。まだまだ自分も捨てたものではない、と思った。泥酔していたことを除けば。


「愛される」という言葉は、「この『わたし』が死なずに存在している、という事実それ自体を理由に『わたし』が承認される」ことだと自分は勝手に考えているが、そんなこと実際に出来るのだろうか。

例えば仮に、親しい女性から「あなたはとても優しくて、色々な経験もしていて、うまく私の話を引き出してくれるけれど、時々表情が、ふっと消えてしまう。私には、その虚ろさが怖くてたまらない」と言われたとする。この場合、「うつろなあなた」は好きな所でも嫌いな所でもなく、ただひたすら「得体の知れないもの」として拒否されている。これでは承認されているとは言えない(と、思う)。それで十分かもしれないけど。


人は欠如を欲望し、他なるものを欲望すると同時に排斥する。「寂しがりや」の行動パターンを考えればよい。彼らは文字通り「寂しい状態」を確信犯的に招き寄せ、関係性に飢えながら相手してくれる人を探しつつ、いざ見つかると、安心しながらもどこかで倦んでいたりするのだ。また同じことの繰り返しか、と言った具合に。


「欠如」は普遍的である。「『わたし』が死なずに存在している」という事実と同じくらい普遍的である。不安に苛まれたり、無性に虚しくなったりする事は誰にだってある。そんな時、人は欠如の普遍性に触れている、と言えないだろうか。人間は、不安や虚無といった負の価値から逃れようと努力する。「自分の心の中に、いつも何か埋め合わせられない空っぽな部分がある」のは辛いことだから。しかし、「空洞」の無い人はいない。いないからこそ、社会を築き上げる事が出来るのだ。むしろ、何とかして「空洞」を発見しようとする、と言ったほうが正確か。そのアンビヴァレントな営みを放棄した時点で、人は恍惚として不知になるのだろう。


しつこく言おう。「うつろなわたし」は、「わたしが存在していること」から導かれる必然である。つまりは「生きている証」そのものである。愛が特殊性を志向するなら、完全な愛は定義上不可能である。なぜなら、「うつろであること」も、「生きていること」も、どちらもこの世界にうんざりするほど遍在している出来事だからだ。


結局のところ自分は、継ぎ接ぎだらけの否定神学を唱えて、拙い文章にして書き散らして悦に入っているだけなのかもしれなかった。でも反省はしない。生きていることに意味を求めたり、救済を求めたりしても無駄である。大体いつも不安で、時々幸せであれば良い。世の中そんなもんだろう、とうそぶく位の権利はあるだろう。まだ若いのだから。




読み返すと何か異常に暗いような気もするが、別にテンションが下がっているわけではない。就活頑張ろう。