絶望ビリー

帰省して暇だったので何となくマキシマムザホルモンを借りて聞いていた。うるさいだけだと思っていたら意外に面白く、特にM2「絶望ビリー」の歌詞に興味を持った。なんでも、アニメ「DEATH NOTE」のエンディングテーマに使われていたらしい。マキシマムザ亮君の曲解説が参考になる。

悪人を死で裁くことは正義か?それとも悪か?
誰が正しくて 誰が間違っているのか?
その答えの奥にある主人公の絶望感を歌ってみました。(中略)
誰かを殺したいエネルギーと誰かを生き返らせたいエネルギー。
さぁ、どっちのエネルギーが強いか勝負しようじゃないか。

「主人公の絶望感」とは何なのか、「悪人を死で裁くことは正義」なのか、どうなんだろうね、まー難しいよねーみたいに思ってたら、今日の新聞の朝刊に光市母子殺害事件の被害者の夫の写真が大きく取り上げられていてびっくりした。前日、広島高裁で差し戻し審があり、彼と被害者の母親が意見陳述をしたようだ。ほんの一部を引用する。


「なぜ1,2審で争点になっていなかったことが、弁護人が変わって以降、唐突に主張されるようになったのか、私には理解できませんし、納得しがたいです。」
「私にはどうしても納得できない。ずっとこの裁判を傍聴し続けてきたが、どうしても君が心の底から真実を話しているようには思えない。君の言葉は、全く心に入ってこない。(中略)君は殺意もなく、偶発的に人の家に上がりこみ、2人の人間を殺したことになる。こんな恐ろしい人間がいるだろうか?」
「君の犯した罪は万死に値する。君は自らの命をもって罪を償わなければならない。」


いまさらながら、この遺族意見陳述の原稿を書いた人(要は夫)は賢いと思う。彼は、刑事裁判で最も重要視されるべき要素は「事実認定」であり、情状酌量はその後になされるべき作業であることをよく把握している。全文を読めば分かるが、彼の主張は非常に理路整然としている。弁護士団がイデオロギッシュな死刑廃止論に基づいて活動しているとも主張していない(当人がどう思っているのかは別だが)。彼の記者会見などでの発言が、カメラの向こうの「共感」を誘うために為されるパフォーマンスであることとは対照的だ。

だからこそ、なおさら「納得できない」という嘆きと「君の犯した罪は万死に値する」という確信的なメッセージとの間にある、論理的「飛躍」に注意が行ってしまう。その懸隔を埋めるのが、彼の心の中にある被害者感情であり、「誰かを殺したいエネルギー」であることは言うまでもない。


さしたる理由もなく二人の人間を死に至らしめた少年が暴力的ならば、それを「悪」と認定し、「正義」の名の元に断罪することも「暴力的」でありうるのではないか。違いがあるとすれば、後者がまだ実現されていないこと、国家によって独占されていることの2つである。

観念論になるが、ある人間を「悪人」としてアイデンティファイし、責任を負わせる振る舞い自体に暴力は内在している。人が一つの正常な個体性(=アイデンティティ)を持った存在として生きていく事が求められる世界で、それはあたかも幽霊のように人間の背後について回る。誰にでも幽霊が取り憑いていることを認識すること(あるいは認識させられてしまうこと)、それが「絶望」の正体である。被害者の夫は何重にも絶望しているのだ。

「自己責任を負う主体として構成された自己は、その自己の編成そのもののうちにルサンチマンを宿している。この自己編成の背後には一つの基本的な観念がある。つまり、あらゆる悪にはそれに責任を負い、罰を受けるべき主体が存在するはずだという観念、世界のあらゆる比率の悪には、その比率に見合って帰責されるべき責任が当然存在するはずだという観念である。」 ウィリアム・E.コノリー「アイデンティティ/差異」

マンガと実在の事件をごっちゃにしている時点で相当不謹慎かつ野次馬根性丸出しだが、気にしていてもしょうがない。それにしても読み返すと長い。もっと何とかならないのだろうか?