忘却?

以下の文章は本当にただの独り言に過ぎずつまらないことこの上ないが、今の自分の気分を少しは正確に反映していることは確かだ。



最近嫌なことが多かったり気分が不安定だったり、本当に自分は至らない人間のようだ、みたいに思ったりして相当凹んだりすることもある、でも何日かすると大体慣れてしまう、要は目の前の事態と仲直りするというか。


誰にでも、子供のときから憧れる「理想の自己」みたいなモノがあり、私にとってのそれはシニカルで孤高な英雄、怜悧な一匹狼、マット・デイモン扮するボーン、と言った風情を漂わせた何かなのだけれど、21歳になって思うことは自分がそこからかけ離れた存在になってしまっている、と言うことかもしれない。取り立てて悪人と言うわけでも善人と言うわけでも偽善者と言うわけでもなく、人並みより若干図太く、若干内向的な文系大学生になっている事に気付いた。何よりマッチョではない。始めから予想はされていたことではあったが。


民間で回る所を絞って、しかし面接になるとあっさりと落とされる、みたいな事が続いて「つらい、でも仕方が無い」と思ったり、好意を寄せている人にキツい言葉を色々言われても、数日経てば「つらかった、でもそういうもんだ」などと考えたりする。周囲で内定が出たりする人が現れると、寮の近辺でチマチマと試験勉強していて果たして大丈夫なのかと焦る。しかしそれを苦痛と感じているようではとてもこれから生きて行く事は出来ないと考えたりもする。我ながら殊勝であると言わざるを得ない。「何か辛い事をしているおかげで人を軽蔑する権利があるとでも言いたげな眼差しほど、人を苛立たせるものはない」と三島由紀夫は言ったのだけれど、全く以てその通りで、物欲しげな影が拭えない男はいつだって敬遠されるのである。


世の中で起こる面倒な出来事の大半は克服の対象になり、それが不可能な場合は忘却の対象になる。怠惰な精神は、自らの怠惰を弁護するという目的を達する為、実に勤勉に記憶を劣化させていくだろうが、それを妨げるのも他でもない「精神」の力であり、感情が意地になって忘却を食い止める。こういった実に平俗な哲学が、つつがなく生活するうえで役に立つのである。無味乾燥な手形小切手法を勉強するとストレスが解消することに最近気付いたので精力的に取り組むようにしている。分かりにくい比喩だが、茹でた芋をひたすら食っていく感覚に似ているのだ。というわけで明日も程々に勉強する。セーフティネットは夏採用と秋採用、これで行くことにする。気が重いが世の中そういうもんである。