三連休と映画

ここ数日、各所で開かれている退屈な説明会の合間にねちねちと教科書ばかり読んでいたせいか、「勉強したくない」という気持ちが麻痺してきた。末期である。


それはそうと、先週と先々週の金曜日にDEATH NOTEの映画をやっていたので不覚にも最後まで見てしまった。途中戸田恵梨香が出てきて「おっかわいい」とか思っていたのだけれど、それより印象に残ったのは夜神月(あるいはキラ)がパカパカ人を殺していく際に用いる発想だった。(以下、下らない理屈をこね始める)




彼らの論理を単純化すると次のようになる。

1.「犯罪者」は「悪」である。
2.「悪」は「裁く」必要がある。
3.しかし「法」で「悪」を裁くことは出来ない。
4.だから「私」が「法」に代わって「悪」を裁く。

こういうものの考え方には、ケチを付ける付けない以前に全く共感できない。ちょうど隣で同じ寮生が見ていて「確かにライトのやってることは許されないんやろうけど気持ちはよく分かるし、むしろ支持してるかも」と話した刹那、思わず「えっマジで??」と大声を上げそうになったくらい(結局どれくらいかよく分からないが)。所詮フィクションじゃん、と言ってしまえばそれまでなのだけれど、でも気になったことは確か。


なぜ共感できないのか、もそもそ晩飯を食いながらひとしきり考えて出した単純な結論はこうだった。つまり自分と「彼ら」との間で、悪をどう捉えるかが違う。自分は「非難されるべきもの」が悪だと考えているが、キラを支持する人は悪を「排除されるべき、忌まわしいもの」と捉えているのではないか。法によって裁くという行為は、雑にパラフレーズすれば「誰かをとっ捕まえて延々審問した挙句牢屋にぶち込む」行為であり、その中に非難の要素は完全に含まれているが、排除や忌避の要素は完全には含まれていない。だから悪をどう定義しようが、先に挙げた理屈の3番目で自分は詰まってしまうのである。たぶん。


相手がいないと非難することは出来ないが、排除によって人は相手の存在を消したり、あたかも存在しないかのように扱うことが出来る。ちょっと残酷な気がしませんか?それに「異常な奴は出来るだけ自分の周りから遠ざけたい」という気持ちの持ちようの裏に、いかにも呪術的な「穢れ(ケガレ)」の思想、タブーの思想を看て取ることが出来てどうにも気に入らない。


日々何かを判断しながら生きていく、その為のモノサシはたくさんある。「善/悪」が主要だろうが、もちろん他にもたくさんある。「正義/不正義」「真/偽」「好/悪」「貴/賤」…その中には「聖/穢」なんてものもある。キラの理解しがたい所は、善悪と聖穢を意図的に混同させている所である。もちろん聖=キラ=神、穢=殺されるべき者、という。犯罪者がいなくなれば平和になるという考え方を実際に支えているのは、犯罪者に対するプリミティブな恐怖だろう。自分の周りの環境がケガレてしまうことを怖れるのだ。


「自分以外の特定のヒトがいなくなれば良い」と思う感情を正当化できる事由、それは報復ただ一つである。報復は不正ではないが、正義では無い。正義は残酷でない何かである。しかるに他者の排除は残酷である。
だから報復以外の理由(恐怖)によって他者を完全に排除するキラは不正であり、もっと言えば死刑を制度化することも不正である。死刑は社会全体にとって善い事かもしれないし、必要な儀式なのかもしれない。しかし決定的に正義に悖るのである。たぶん。デスノは別にどうだって良いけど、死刑に賛成することは自分にはムリだと思った。話が飛躍して申し訳ないが、それが映画を見た感想だった。