終わりの始まり

官庁訪問が実質的に終了した。おそらく私は、来年からKSRD省の官僚として社会保障と雇用政策に骨を埋めることになる。


最後の決断は実に困難だった。当日の朝までZ省とどちらを選ぶかで迷い、最終的に「やりたい事」で選んだ。組織の雰囲気が少々気になったが、もはや後戻りはできない。途中「やっぱ向こうに行きたい」と本気で考えて採用担当に相談したところ、おっさんが現れて「こっちに来い」とマジ説得され、それでもまだ未練を捨てきれないでいた夜に、友人から「お前の選択は間違っていない」と言われ、吹っ切れた、というか。

何から吹っ切れたかと言うと、京都に生まれた野心的な人間がたどる道筋としてありうる、灘高校→東大法学部→財務省というルートへの拘泥であった。しかしそんな事はもう良い。私は目標を転換し、将来の事務次官就任を目指してターミネーター並みに仕事をすることを決意した。

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官僚の仕事の面白さのひとつであると私が感じたことは、種々の利害を綜合していくことである。サービスを供給する集団、受給している集団、地方公共団体、政治家、他省庁、その他もろもろの利益団体の意見を聞きながら、議論を積み重ね、制度に結実させていく。やがて制度は、新しい法案として閣議決定され、両国会で議決された後に社会全体へ流通していく。その長ったらしいプロセスの中に、世の中の「一筋縄でいかない感覚」が凝縮されている。彼らが面接で私たちに語ってきたことは、詰まるところ全て制度設計にかかる問題意識であり、方法論なのであった。


早い話私は「世の中」が好きなのである。シニシズムは底なしのオプティミズムへと容易に反転する。世界は認識ではなく行為によって変化すると信じ、錯綜する現実と格闘していきたいと思う。コトバの空虚さを、これからは振る舞いで埋め合わせていく。要はそういうことなのだ。