フィクション

コーヒーを大量に飲んでいるせいか最近微妙に精神が安定してきたので、あーでもないこーでもないと妄想に浸ることが多い。


そういえば昨日は「生きる意味」ってどうよ、みたいなことを考えていた。「生きる意味」と言う場合の「意味」は、通常の言葉の使い方と少し違う。「生きる意味がある」というのは、つまり「人としてどうやって生活していていけば良いか見えている」ということだろう。自らの人生について、「こうすべき」という規範を当てはめることができる状態を指しているはず。


でもそうした規範は、「自分が死なずに生きている」と言う事実、「生身の身体がここにある」という事実から当然に導き出せるものではない。存在(〜が「在る」)と当為(〜である「べき」)の二元論、みたいな面倒な話を持ち出す必要はない。人生のビジョンが人それぞれである、という当たり前のことを確認するだけで十分だろう。「生きる意味」とは、「予めそこに実在していて、やがて掴み取るべきモノ」ではない。ましてや、ただ待っていれば向こうから勝手にやって来るモノでも無い。それはむしろ、特別な事情によって「生成されるモノ」であるはずだ。


とすれば、「生きる意味」は、「自己」や「民族」、「物自体」のような一種のフィクション、擬制として捉えられるべきだ。フィクションとはつまり、「リアルなものとして存在することを理屈で説明できない、所詮はヴァーチャルなものに過ぎないが、逆に全く存在しないと考えた場合、何かと不都合が生じるもの」である。フィクションは理念として生成される、要は物語である。


そういえば誰かが言っていた、「フィクションとは、偶然と必然がたゆたう間に生成される」のだそうだ。この言葉をどう解釈するか。。ある出来事が、本人の意識の中で、偶然と必然の間を行ったり来たりする。その往復運動が、フィクションを生む契機となる。そう考えるのが最も自然だろう。


普段人は、「次に起こる事、次に出会うヒトやモノ」を予想できる。言わば必然の世界、因果律の世界の中で生きている。目の前に現れるヒトやモノ、出来事のほとんどは、記憶として焼き付けられることも無く、そのまま自らの前を通り過ぎてしまう。しかし、そうした均衡は往々にして破られることがある。予想しなかったコトに遭遇することを人は偶然と呼ぶ。


人はありとあらゆる物事を偶然と必然に色分けしながら生きている。そこにフィクションの生まれる余地は無い。ただ物事には例外が付き物であり、必然と偶然の二元論も例外ではない。ある種の偶然は、当人がこれから辿るべき因果律を決定的に変えてしまう可能性を持つ。「世界が変わる」のである。そのポテンシャルを秘めた偶然の別名が運命である。


運命は未来を変えるだけではなく、過去をも操作する。偶然の本来の姿である「予想だにしないコトとの遭遇」は、当人の意識の中で「2つの異なる因果律の出会い」へと姿を変える。「これは偶然ではない。ここに至るまでにはきっと『理由』があるはずだ。端から見れば偶然かもしれないが、俺にとっては『必然的な出会い』、つまり特権的な経験だ。」という具合だ。


成熟した人間の意識の中には、「自分ならこう考える」という主観と、「第三者ならばこう考えるだろう、こう考えるべきだ」という「第三者の審級」が同時に存在している。新しく運命と名づけられた経験は、その性質をめぐって主観と「第三者の審級」の間で宙吊りになり、そのギャップを埋めるものとしてフィクションが新しく生まれるのだ。


「生きる意味」とはフィクションであり、フィクションは偶然と必然の往復運動の中で生まれる。往復運動の直接の原因は「運命」である。。。



…と、ここまで書いてきて、内容のほとんどが仏教で言う「縁起」と丸々被っていることに気付いた。否、始めから薄々気付いていた、と言ったほうが正確か。世の中そんなもんである。でも今更消すわけにも行かないのでこのまま残しておいて寝ることにする。明日も1限からある。。