米沢⇔郡山⇔王子

卒業検定が終わった。相変わらずガチガチに緊張し、数回ミスをしたが何とか合格することが出来た。明日か明後日にでも学科試験を受けて、さっさと免許証を交付してもらおうと思っている。ちなみにタイトルはこれと言った意味は無い。郡山で寝た、それだけのことである。


それにしても、と思う。自分は何のために合宿で免許を取ろうと思ったのだろう。早く取れるから?何かしらの「出会い」があるから?端的に言って楽しいだろうから?…今となっては分からない。一つ確実なこととして言えるのは、毎日が呆れるほど暇なこと、生活リズムが小学生並に規則正しくなること、それくらいだ。出会いがあったかどうかは、あと1,2ヶ月位したら分かるだろう。この手の出来事は、未来の地点から振り返って始めて意味を成す類のものだからだ。


合宿中、ずっと債権各論・不法行為法の教科書を読み、東京大学物語をながめ、連続ドラマ「ハゲタカ」の最終回を視聴し、羊をめぐる冒険を読んでもまだまだ時間があったので、ぼけっと感慨に耽っていた。人間は、往々にして自らが拘束される、あるいは「不自由になる」ことを望むものだな、とか何とか。

何を拘束するのか?もちろん行動だ。「約束」は守られるべきだ、ということ。「関係」は継続されるべきだ、ということ。「罪」は贖うべきだ、ということ。「自尊心」は守るべきだ、ということ。その根底には、人が死なないで暮らすためには「使命感」「生きるモチベーション」が必要だ、という至極当たり前の事実がある。自己の行為の範囲を狭める(あるいは縛る)力が、人生を動機付ける…んじゃないか? 人が仕事をすること、結婚(あるいは恋愛)すること、それらは皆自らを不自由にするが、代償として「役割」や「居場所」を自己にもたらすのだ。


話を、合宿中に見聞きした諸々のメディアに移す。様々な法律上の義務と権利は、約束と関係、どちらを優先するかという微妙なジレンマの上に存在している。社会的生命を賭して、時には既存の「関係」を切り捨ててまで企業再生に取り組んだ「ハゲタカ」の主人公を支えていたのは、一個の贖罪意識だった。「羊をめぐる冒険」を極めてヘボく解釈すれば、それは「自分探し小説」であり、「羊つき」によって自らの生きる目標や使命感を剥奪、操作された3人の登場人物、そして主人公が、それぞれの再生を目指して彷徨う話である。羊との心中を選んだ鼠、そしてエピローグで主人公「僕」の見せる涙は、一言で言うと絶望のシンボルである(暗っ)。話はズレるが、東京大学物語の核は、妄想がとめどなく溢れ出る下品なエロ漫画であり、自意識過剰で驕り高ぶった東大生のカリカチュアであり、エラそうな、自信満々な生き方全てに対するカウンターパンチだった。やはり青春マンガはこうでなくてはならない、と思った。



話に収拾がついていない?単なる自己満足? …もう、それで良いのだと思う。閉じていない日記は、全てが他者に対するメッセージであることを自覚してさえいれば。