敬天寮

サークルの企画委員やってた6人で集まって飯食って酒飲んだ。場所は自分の寮。
誰かを自分の部屋に呼ぶときは、当たり前だけどいろいろ気を使うものだと思った。遊びに来る人たちに対してはもちろん、ふだん寮に住む他の人にも相当気を使ってしまう。それだけじゃなくて、今度は自分の内心のびくつき加減が露見して、逆に相手に気を使わせてはいないだろうか、などと不安に陥いることもある。(実際にはそんなこと無いんだろうケド)


でも友達が去って、部屋に一人いる通常モードに移行すると、そうやってあれこれ考えてたことがとてもゆかしく思ったりする。一晩だけにせよ、部屋に自分以外の誰かがいて何となくのんびりしている、と言う状況はすごく魅力的なんだろう。あーまた誰か呼びたくなった。


ここから先は、昨日の続き。コメントに対する応答、と考えてくれて問題ない。


確かに、「社会的流動性が増大ずる、つまり「境界線」を越える機会が増えるにつれて、反動として一時的に差別意識が喚起、強化されるが、それらはやがて消滅に向かう」というテーゼには一面の真理が含まれてると思う。ただ、そのテーゼがいつもいつでも成り立つとは限らないのも、十分良く分かってるつもり。


問題は2つあると思う。「Nation」はラテン語で「natio」つまり「生まれ」を意味するんだけど、そうした「血」や「土地」の意識によって基礎付けられた区別は、一時的なものでありうるか、ということ。民族を巡る問題が典型的だろう。これが一つ。
2つ目は、社会的流動性の増大が、新しく抽象的な差別、つまり「いじめ」を各地で生み出してないか、ということ。学校や職場といった「作られたコミュニティ」においては、ちょっとした違いが、理不尽なほどの排除を生み出すことが良くあると思う。


ひとりで自足する、完全な個人なんていない。そうした人間の根源的な不完全性が、社会の持つ「自己凝集性」の基礎にあると思う。単なる個人の集まりが、集団という性格を越えて一つのまとまりを獲得すること、それが「社会」が誕生するきっかけだろう。

自己凝集性を核とする「社会」は、その存続のために「同化」と「排除」を絶えず繰り返している(実際のアクターは、その構成員)。だから社会という一つの現象を観察する際に、差別を見出してしまうことは避けられないこと。でもそこで開き直るのは、あまりに分別臭い「大人」のすることだと思う。自分はその点でまだまだ子供だろうし、大人になるつもりも無い。 自分自身が、社会一般のルールから逸脱した(あるいは守れない)ダメな人であることもそう思う理由かもしれないけど。



誤解を招く冗談は、自身の信条からするとやっぱり気持ちの良いものじゃない。言いたいことは分かるんだけど。。。「人」を取り上げることと、「政治」や「経済」を取り上げることとは全く違うものだから。自戒も込めて、ちょっと偉そうなことを書いていたら眠くなってきたので寝る。