サイゼリヤジョナサン

やっとこさ試験が終わった。「今までの遅れを取り戻す」という名目で、何というか、朝から朝まで勉強していた。最後の方になってくると、「自分は一日のどこまでを学習に割く事が出来るか」を競うゲームの様になっていてちょっと可笑しかった。あたかも変な霊に取り憑かれたかのごとく仕事に「熱中」する者を、人はワーカホリックと呼んでバカにするが、自分はそれに似たようなことを、1週間という期限付きでやろうとしたのだった。

やってみると、いろいろなことが分かって面白かった。

  • 手足や首に震えが来る
  • 独り言が増える
  • 猛烈な勢いで腹が減る
  • 一応知識は増える

何というか、ハードな泊まり山行と感覚的には同じだと思った。モチベーションの問題として、一人でやるより複数でやったほうが効率的という点でも同じ。


当分は違うことをして過ごしたい、かも。あれこれ旅行して、感想の一部は日記としてネットに上げようか、とも思う。春休み中に、今まで習った判例や学説を覚えてしまうのも、それはそれで知的な作業なんだけど。。。でもその前に、ナショナリズム・民族問題絡みで28日までに1個文章を書かないといけないみたいだ。面倒だが、ちょっと考えてみた。


「日本で民族問題や差別問題を考えようとしても、なかなかそれをアクチュアルなものとして捉えることが出来ない」と悩んでいる友達がいたけれど、それはそれで幸福、というかうらやましく思う。無自覚に「サベツ」することと、そこに問題意識を持つということの間には、もちろん実践上の態度に大きな違いがあるのだけれど、そうした区別をいかなる形にせよ一旦受け入れている点で、両者は共通している。そうした「区別」はどういう訳か、人の頭の中にしぶとくこびりつくものなのだ。




…何というか、京都や関西が少し特殊なのかもしれない。例えば京都では、「市内」に生まれ育った人と、郊外に住む人、それ以外の山城、北部に住む人の間には微妙な距離感がある…はず。京都市内の「中」も色分けされている。「上京」と「伏見」は違うし、「祇園」と「先斗町」は全く別、と僕の周りの「大人」はよく言っていたものだった。自分は郊外生まれの人間なのでその辺は良く知らない。


在日や同和、あるいはヤクザといったあたりとの関係も両義的というか何というか。。。ネット上のあからさまな「ヘイトスピーチ」が、本当は何も事情を知らない、知ったかぶりによる幼児的潔癖で満たされているのに対し、「大人」たちはその辺を良く心得ていた、ように思われた。自分たちにはどうしようもない「歴史」が、地域や集団に刻印されているように想像されるから、だろうか。


また話は反れるが、京都や大阪では、創価学会共産党と言った、一定のイデオロギーを持った集団が、決して無視できない政治的社会的影響力を持っている事も特徴的だと思う。小選挙区議席を送り出せるのは関西くらいだろう。ポスターも色んなところに貼ってあるし。


なんだろう、話を一般化すると、「過度に同質的で、同調圧力が強いといわれる日本社会において、京都や大阪では、社会的差異が割と目に見える形で存在する。それ自体は良いとも悪いともなんともいえないが、そうした区別は容易に差別に結びつく」くらいか。つうかこんな所で御託を並べる暇があったら、高村薫レディ・ジョーカー」を読んでもう一度色々考えるほうがマシかもしれない。というわけでもう寝る。