コミュニケーション?

最近気付いたのだが、ここ数週間自分の口数が明らかに減っている。様々な事情があるといえばある…今日も学校に行って刑法第一部を大教室で聴き、2,3,4限とひたすら図書館で読書と睡眠を繰り返し、5限の国際政治を受けて、二人で晩飯食って帰ってきて今寮にいる、と言った具合だ。誰かと晩飯食っただけまだマシと言える。


それはそうと、中国残留孤児が、早期帰国を実現する義務や、自立を支援する義務を怠ったとして国を相手取って起こした訴訟の判決が最近出た。過去二回(東京、大阪)では原告側が敗訴したものの、今回の神戸地裁では国に賠償責任を認め、原告が勝訴した。へーと思ってちまちま調べていると地味に面白かったので書いてみることにする。


まず、一口に中国残留邦人といっても、置かれた環境は様々だ、ということ。特に、敗戦後の混乱の中で中国人男性と結婚した「残留婦人」の多様な「ライフ・ヒストリー」には目をみはる。同じ孤児、あるいは「婦人」でも、本人のアイデンティティには違いがある。自らを日本人と思っている人もいれば、中国人と思っている人もいる。また、中国に定着する人もいれば、日本に永住帰国する人もいる。帰国と同時に、相当大勢の孤児2世、3世が入国している事実もある。いずれにせよ言えるのは、彼らが長い間、「日本人」とも「中国人」とも言えない中途半端な法的地位に甘んじていたことだ。厚生省は1959年に公布された「未帰還者に関する特別措置法」を通じて親類縁者に「戦時死亡宣告」を迫りなかなかの悪名を馳せていたが、その当時中国では既に彼らは「外国人居留者」として消息を把握された状態になっていた。中国との国交断絶期間中も人的、経済交流は盛んだった。それにも関わらず、残留邦人問題は、政府はおろか国民の間でも問題として意識されないまま、年月だけが過ぎ去ったといえる。


しかし彼らを感情的に擁護するのはあまり上手い方法ではない。例えば、「同じ日本人なのに可哀想だ」みたいに言うと現地の養父母や中国人全体に失礼だろう。なにより、一部孤児2世の社会的不適応をあげつらって「日本人だか中国人だか良くわからない人たちを、大量の親戚と共に連れてくるのは如何なものか」と主張する一部の保守主義者の身勝手な主張に対抗できない。とにかく、非論理的な同質性を前提とする「ネイションの言葉」は、ここでは不毛な結果をもたらすのみだろう。残留孤児を憐憫や同情の目で見ることは一種のパターナリズムであり、日本社会に今ひとつ溶け込めない彼らに対する理不尽な反発に転化するおそれがある。


同様に、彼らを「戦争被害者」や「棄民」として語ることも、市民の意識啓発には役に立つのかもしれないが、有効な救済にはつながらない気がする。先の大戦で被害を受けた人は大勢いるし、ドミニカやブラジルでも、政府の場当たり的移民政策によって同じような問題が生じていたからだ。そもそも裁判所が「戦争被害受忍論」などという親方日の丸的な理屈を持ち出すから話が上手く行かない…



これは憶測に過ぎないが、原告が訴えを起こした背景には、もっと身近なところでの不公平感があったと思う。もともと満蒙開拓団は、一つ一つの村単位で送り出されるものが多く、そこには共同体の結束があった。比較的初期に永住帰国した「初期帰国者」は、そうした村の共同体に再び戻ってきた。彼らに対しては自治体レベルで独自の支援が行われ、日本語の訓練も進んでいた。住宅、家財はおろか、月3万円の見舞金制度もある。下伊那地域などが良い例だ。
しかし幸せな人はそう多くはいない。身元引受人になってくれない肉親も多くいた(だから特別身元引受人制度が始まった)。保守的な村落では、祖国日本への想いを中国語で語る「彼ら」に違和感を抱く者もいただろう。孤児やその家族の多くはコミュニティの無い大都市部に向かい、そこで新たな孤独を味わうことになる。


共同体の絆を取り戻した一部残留孤児の恵まれた生活、北朝鮮拉致被害者に対する政策的配慮、こうした事例に比べて、「同じように」辛酸をなめた私達がなぜ救済されないのか、という原告の訴えはまさに正義といえる。残留孤児問題は戦争責任の問題ではなく、発言力の弱い社会的マイノリティによる「公平感」の問題なのだ。



…当初原告が国家責任を問うために持ち出した憲法(13条)は、当然のことながら彼らの全く与り知らないところで公布、施行された。どう考えても憲法制定権力に加わっていない中国残留孤児が憲法を持ち出して政府を糾弾しようとする様は、少しシニカルで悲しかった。このエントリ自体がシニカルで悲しい、という批判は無しで。