アクロバット

…全く日記を書いていない。何とかしたい。

ところで最近、本を読みたくて仕方が無い。宿曜占いとやらをやって見たところ自分は「内心世界の充実を求め」「社交的だが孤独」で「人前に出るよりも参謀役に徹する」方が良い人生を送れるらしい。ならば尚更読書に励むしかない。悲しいことだ。

自分の良く知らないうちに世の中は大きく変わっていくもの。前宮崎県知事の談合罪での逮捕の一報を聞き、そう思った。自分の接するメディアで彼を擁護する論陣を張るものは、はっきり言って見かけない。特定の個人をスケープゴートにしているようで面白くないので、彼を擁護する方法が無いものか、法学部の端くれの人間として少し考えて見た。

罪を裁く場合、大きく分けて3つの手順を踏む。まず「当該行為が構成要件に該当するか」つまり事実関係を確認し、次に「当該行為に違法性はあるか」最後に「行為者に責任はあるか」を吟味する。

検察の捜査手法ははっきりしている。まず、ネームバリューの低い「土建業者」とか「元秘書」とか「その辺の有力者」を先に逮捕し、念入りに捜査する。そこで首長に不利な供述を引き出し、満を持して逮捕する、と言った具合だ。かつてのゼネコン汚職日本道路公団発注の橋梁建設談合、ジャンルはやや違うが堀江貴文村上世彰のケースにも使われた、と僕は踏んでいる。とにかく先に逮捕された人間は、自らの責任を軽減させたいばかりに「全て上の指示で行った」と主張しがち。ましてや、前知事は県庁職員からの生え抜きだ。談合罪が適用されるためには、入札行為の操作に関して首長からの具体的指示が必要だが、今回のケースで、そのような「威力」ある「天の声」があったかどうかは、今のところ分からない。県の決定に対し、県内の建設業者が「地元業者に工事を発注する「慣行」からの逸脱だ」と抗議したケースについてのみ立件したことも変だ。彼らに仕事が回ってこなかった腹いせとして、わざと知事を陥れるような発言をしたことも考えられる。各種業界と結びついた県議会議員は、知事選において対立候補を一貫して支持しており、当選後も知事が打ち出していた公約にことごとく反対していた。前知事は、「部下に裏切られた」とメディアの取材に対し語っている。額面どおりに受け取るのはもちろん禁物だけれど、事実関係はそう単純なものではない…かもしれない。

行為の違法性について争うことは得策ではないが、少なくとも、前知事が仮にそのような「指示」を行ったとして、果たしてそれが法律に触れる行為であると認識していたか、大いに疑問がある。かつて談合罪は形式犯とされ、具体的な金銭の授受があって(贈賄、収賄)、初めて立件されると言うのが慣例だった。検察の方針変更により地方自治体レベルでの談合が現在進行形で次々と摘発されている現在ならいざ知らず、少なくとも去年の時点では、後々逮捕されることを知事は夢にも思わなかったはずだ。本人の行為について、違法性の意識を欠く相当な理由が付随している場合、故意を認めた上で責任が減少する。…



言うまでも無く、こんな議論は、事情を知らない素人の邪推に過ぎない。自分自身の価値観としては、どんな形であれ「公正な入札、あるいは競争」が歪められることには強い抵抗がある。ただ、官製談合がこれほど深く根付いている現状を見るにつけ、改めて「公正な入札ってほんとに出来るのか?」と考えてしまう。

公正さとは、一言で言って「等しきものに等しきものを」保証することを要求する正義のことだ。等しく収入を得た人は等しく税金を払わないといけないし、等しく成果を出した人は等しく給料をもらわないといけない。「節税」と言う名の脱税、パートと正社員の労働格差といった問題は、こうした「公正さ」の発想が必要不可欠だ。つまりここで、「どこまでを『等しきもの』として認めるか」という問題が新たに生まれることになる。「選挙でお世話になった人には相応の恩を返すこともやむを得ない」という知事の行動原理は、「選挙で彼を支持した有権者一般にその原理を当てはめることが出来ない」と言う理由で即行破綻する。では、有能なリーダーであれば克服できるのかといえば、話はそう簡単ではない。なぜなら、規範に基づいて判断する「自己」が、既に共同体的な文脈の中で大きな制約を受けているからだ。例えば、宮崎県内の建設設計業者が「地元に仕事が落ちてこないのは「不公平」だ」といって反発した事がその例だ。彼らの頭の中では、入札の際に公平に取り扱われるべき「等しきもの」が、「地元の業界」という共同体の枠の中に限定されている。

「自由で公正な決定主体」としての「自己」は明らかにフィクションであるけれども、それを前提としなければ「社会正義」とやらは成り立たない。だからこそ、指導者や権力者は、己の限界を知る謙抑性と安定した正義観を持つ必要があった。形式的には相当強大な「権力」を保持する多くの自治体の「首長」に何が求められるのか、今回の事件は示してくれたような気がする。そんな奇麗事を言ってどうにもならないだろ、と言われればそれまでだけど。