裏妙義縦走

11月3日、文化の日に二人で裏妙義を縦走してきた。スリリングな鎖場、浅間から奥秩父までを見渡せる素晴らしい景観、そして紅葉を楽しむ事が出来た。翌日は山手線一周に途中まで参加し、帰って一仕事して寝た。

妙義山の地図には、見慣れない(そして何だかびっくりするような)言葉が所狭しと並んでいた。チムニー内20m鎖、3連30m直立鎖、ルンゼ源頭のトラバース、ナイフリッジ、…訳が分からないのでガイド本を開くと、表妙義の縦走は初心者にはあまりに難しすぎる事が分かった。裏妙義なら何とかいけるかもしれないという希望を抱き、電車に乗った。
踏み跡はしっかりしているものの、一部不明瞭な箇所がある。読図に苦労しつつ、ピークの丁須ノ頭に着いた時は感激した。灰色にくすんだ荒い岩峰を辛うじて覆い隠すように茂っている木々が、様々な色に変化している。目を射すような紅と茫洋とした黄緑と朽ちかけた赤茶色が混じり合って、何やら幾何学的な模様を作っていた。変なたとえだな。
それと引き換え、あんまり歩いていないのに山手線一周はとても疲れるものだった。ぼんやり考え事をしながら歩いているせいだろうと思った。


以下、全くタイトルと関係ない事を書く。最近日記が途絶えていたのは、あれこれ内容を練るのに疲れてしまったからだ。とりあえず何でも良いから書く事にする。
自身の日常生活を詳細に、面白おかしく記したところで、あまり興味を持って読んでもらえないだろう。昔はそれでも良かったのだけれど。ピーピング趣味の対象となるには自分の人生はあまりにも平板で、陰影に欠ける。実際出来ているかは知らないが、とにかく読んだ人が少しでも共感できるような記事を書こうと思い立った時点でハードルは一つ上がった。
自分自身の赤裸々な感覚、日常会話では決して出ないような「本性」、「価値観の起源」などをさらせば良いのか。…しかしどうも腑に落ちない。誰かに話したり、誰かに向かって書いたりする、つまり言葉による表現は、「話し手」「書き手」を必要とする。そうした表現の「担い手」が存在することと、その担い手が明晰な思考を持つ事が、社会の中でのコミュニケーションの大前提になっている。一人の人間を司る「自己意識」が、話したり、書いたりする、その度に生成される。裏を返せば、そうした表現に回収されない「心の闇」は自己が生まれる以前のもの、つまり誰の所有物でもない事になる。「本性」なんてものは始めから存在しない。
誰もが持っているであろう悩み、葛藤、苦しみを言葉ではっきりと表現する事は難しい、というよりも原理的に不可能な気がする。「『痛い』と思うから痛いのだ」という通俗的な警句は、記号が認知に先立つ人間の宿命を表している。しかも一度言葉になってしまえば、意味の解釈はもはや他者に委ねられる。生々しく、それでいて何処かぼんやりした「心の奥底」は、他者によってその意図を読み取られ、欺瞞めいたものに鮮やかに変身する。それは、言葉の持つ遂行的な力の、一つの帰結である。

心の特性は、それが本来あるべきもの、すなわち公的に表示してはならない奥深い動機にとどまるために、暗闇を、つまり公の光からの保護を必要とする。どんなに心の奥深くで感じられた動機であろうと、いったん外に出され、公的な検閲にさらされると、それは洞察の対象と言うよりも、むしろ疑惑の対象となる。ハンナ・アーレント「革命について」

もはや何に悩んでいるのか良く分からなくなってきたが、要は赤裸々な告白は自分には苦手だ、ということだ。ついでに言うと、日記を通じて間接的に他者を批評、批判する事も苦手だったりする。後が怖いし、どうせ後で自己嫌悪に陥るくらいなら面前で罵ったほうが気楽だからだ。
かくして、曖昧模糊とした感情は周到に保存され、チムニー内20m鎖で両足バタつかせてテンパったり、ガスの中、辿り着いたチンネの頂上でがむしゃらに叫んだり、21時30分の原宿駅改札口前で異様に焦って周りから変な目で見られたりする。もっとエネルギーが欲しい。