鞍馬寺

昨日、Radioheadを聴きながら一晩中あれこれとぼんやりしていた所だんだん気が滅入ってきたので、気晴らしに自転車で鞍馬山に行って来た。場所の選定に特に理由は無い。
鞍馬山入山は、そのまま本尊である"尊天"の信仰を意味している(と僕は解釈している)。以下パンフレットを引用する。

尊天とは、「宇宙の大霊であり大光明、大活動体」であり、私たち人間をはじめ万物を生かし存在させてくださる宇宙生命、宇宙エネルギーであって、そのはたらきは愛と光と力となって現れる。(中略)鞍馬山の信仰は、尊天を信じ、一人一人が尊天の世界に近づき、ついには尊天と合一するために、自らの霊性に目覚め自分に与えられた生命を輝かせながら、明るく正しく力強く生きてゆくことにある。

鞍馬山信仰はとても歴史の古いものであるが、記述はいかにも現代風だ。バラモン教における宇宙の根本原理"ブラフマン"と、キリスト教の三位一体説と、東方正教的な神人合一の思想を手際よくミックスしたようにも見える。個人の抱く有形無形の信仰を誰にでも分かりやすく言葉にして伝えようとした結果だろう。尊天という取って付けたような抽象物に聖性の全てを依拠しているのは、アミニズムと共生する日本宗教の中にあってなかなか思い切った試みだと思う。「愛」という、仏教の中では必ずしも一致した価値を与えられていない、というかむしろ幾通りもの解釈が可能な言葉を三位の一つに含めていることが興味深かった。ここでの愛は、渇愛の愛か、恩愛の愛か、慈悲の愛か、、、それは僕にもさっぱり分からなかった。


まぁ実際に行ってみて感じる鞍馬山は、ああだこうだ言われるよりもっと大らかで、清々しいものだった。日光を受けて黄味がかかった、北山杉の美しく端正な木立が、むしろ華奢な、壊れかけた和傘のような印象を与えるのに対し、鞍馬山を覆う老杉はどこかぶっきらぼうで、なお飄々とそびえていた。鞍馬は天狗信仰でも有名だけれど、本殿に向かうつづら折れの参詣道を歩いていると、木から木へと融通無碍に動き回る天狗の姿やあるいは修行中の牛若丸の姿などが想像されて、少し愉快な気分になった。何か人を食ったような雰囲気が鞍馬にはある。それが心地良さの源なのかもしれなかった。

一通り本殿からの景色を楽しみ、ベンチに寝そべり、さっさと帰って飯食って寝る。今日は久しぶりに充実した日だった。