セキニン

新聞紙上で「責任」という言葉が踊っている事が最近多い。「総裁就任後もファンドに投資し続けた日銀総裁の道義的責任」やら「87年3月時点で加熱製剤の危険性が明らかになっているにも拘らず有効な対策を打たなかった行政の不作為責任」とか。でも何かこう、質的に違う倫理的問題を責任という言葉で一緒くたにしてしまうのには微妙な違和感を覚える。
特に「道義的責任」の方がよく分からない。常識を持ち合わせた大抵の人あるいは常識的なメディアなら、「日銀総裁はなんら違法な行為はしていないが、公人として投資は慎むべきだった」と判断したに違いない。しかし、これは果たして本当なのだろうか。
投資と言う、端的に自由な行為を断念させるには、それを正当化する相応の理由が要ると思う。「無用な疑いを招く行為は差し控えるべき」という、李下に冠を正さず的な議論は、判断基準を他者の眼差しに委ねている点で「弱い」と思う。「公人」と「私人」を峻別する議論もどうも気に食わない。どうだめなのかと言われると困るけど。