ヘルター・スケルター


どうもこんにちわ。一応元気です。


研修から戻って来て間もないし、毎日毎日わかんないことだらけでテンパっている。
もう、全然分かんない。職場はみな自分よりも10歳くらい年上で、まるで大人と子供である。

せっかくなんで自分が何をやっているか得意げに書き散らかそうと思う。

1 雑用
書類の整理やHPの更新手続き、説明用資料の更新等。実はメイン。

2 電話番
いろんな人たちから電話がかかってくるのでとりあえず取る。ほとんど全部未知の事項なので折り返しにして確認。いろいろ資料を見てたらたまに「答え」が書いてあったりして小躍りして電話。独自の解釈をすると怒られる。
時々なんだかとても怒っている人がいたりして、さんざん暴言を吐かれた揚句、大抵突如「ガチャッ」と電話を切られる。そのガチャ音が耳に残らないように、相手の雰囲気を察知したら耳を受話器から避難させる術を覚えつつある。お客様相談室に転職したら役に立つスキルではなかろうか。


3 固有の業務
「調剤レセプト直接審査支払」がどうとかいう話にまつわる手伝いをここしばらくやらせていただいている。最初何を言ってるのかさっぱりわからなかったがしっかり勉強していくうちに割と楽しくなってきた。


要は修行しているということである。気分も意外に安定している。



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最近岡崎京子のマンガを読んだ。一言で言うと全身整形で美人になった女優が転落していく話である。きれいになったまさにその絶頂の地点からスタートし、あとはすべり台のごとくフリーフォール、なのだが、悲壮感はない。何より主人公自身がロマンチシズムからは最も離れたところにいる。

自己憐憫に浸る暇もない人たちが、うまく生き延びるために身につける利口な態度のひとつとして「投げやり」が挙げられるが、彼女が徹底して投げやりであることによって、より一層、彼女自身の内面の心の痛さがリアルに読者を捉える。幸か不幸か、読み手に痛い感覚や空っぽな気分を追体験させてしまうポテンシャルを持ちあわせているのだ。


まぁそんな感じである。明日も頑張ろう。



ヘルタースケルター (Feelコミックス)

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

社会人とわたし


こんにちわ。私は生きてます。


私は無事大学を卒業し、先月から公務員として仕事をしています。


仕事は医療保険制度にかかわるもので、今のところは、主に法改正の資料を読んだり勉強したりしています。


自らの責任の重さを噛みしめながら、誠実に業務に取り組んでいきたいと思います。






…まぁそんなことはどうでもよくて、とりあえずそこそこ元気です。元気なのは結構ですが、以前と比べて人との意思疎通が下手になったな、と思うことがしばしばあります。


たとえば、話題をうまくつなぐことができないと感じています。別にこれは自虐でも何でもありません。率直に言って、ダメなのです。



また、何かを胸に抱えている感覚にとらわれる瞬間がときどきあります。
多少文学的な表現を使えば、その「何か」というのはトロイの木馬に似ていて、普段は大人しいのですが、何かの拍子に扉が開くと、毒々しい気分で心の中が満たされるのです。そんな時わたしは、わたしも含めた全ての人を疎ましいと感じます。とても残念だな、とおもいます。



…暗いですね。でも、まぁ、日記というのはそういったものなのではないかとも思います。自己本位で構わないと開き直っています。

とりあえず今は、与えられたことをこなすだけで精一杯ですが、それなりに楽しみを見つけて暮らしていこうと思います。それでは。



↓最近本を買ったので紹介します!

福祉国家という戦略―スウェーデンモデルの政治経済学

福祉国家という戦略―スウェーデンモデルの政治経済学

pedoと白昼夢

あまりにも久しぶりの日記で、まぁ心配していた人もそうはいないだろうが、一応元気です。



しかし、この2ヶ月間を振り返ると、元気とは程遠い状態だったこともまた確かなのだ。(今から憂鬱な、超私的な、心の中に溜まったウミを吐き出すような日記が始まるので、よほど興味のある人以外は退屈かつ不快に思うに違いないので注意して欲しい)




…話の始まりは7月の終わりごろにさかのぼるのだが、ちょうどその頃私は風疹に罹患し、全身に赤い発疹が出来、高熱を出したついでに咳が止まらず、結構面倒な状態が続いていたのだった。8月上旬に完治し、上京したのだが、その時に、ふと色々な事が馬鹿馬鹿しくなる瞬間が訪れた。


何が楽しいんだ、自分」というのが最初の感覚だった。続いて喉の下辺りの空気の出入りが悪くなって不意に苦しくなり、続いて猛烈に「後悔」し始め、あらゆることにやる気が出なくなった。断続的にそういう状態が訪れるせいか、大事な人との仲もぎくしゃくして何となく心穏やかで無い状態が8月いっぱいまで続いた。


続いて9月。上旬に身内に不幸があり、告別式に出席した。ここ数年疎遠にしていたものの、別れはやはり悲しく、出棺のときは何度も涙をこぼした。そしてその2,3日後になって、「死」や「殺人」と言った言葉を聞くと急に胸が苦しくなる発作が始まった。そればかりか、葬儀屋の看板を見たり血を見たりするだけでも目が回るような感覚にとらわれ、些細なことで気が動転するようになった。


「差別」とか「人間」とかいった言葉が、何度も耳の中にこだまして、ひどい時は一日中鳴り止まなかった。道を歩くあらゆる人の顔面にそういう言葉がディスプレイされ気色悪くなった。念仏を唱えたところなぜか少し寛解したので、習慣にしていたところ今度はそれが癖になって困った。耳に入る様々な言葉(例えば「いなぎながぬま」とか)が頭の中でいくつかのピースに分解されるようになった。「いな+ぎな+が+ぬま」といったように。それらの言葉からどんどん連想が始まって、頭がいい加減疲れて眠くなるまで続いた。


正直に言ってしんどくなり、昼間からベッドによこたわって気分の回復を待つ日も何日かあった。何か得体の知れない怪物に自我が乗っ取られて汚染されるような、そういう妄想が頻繁に起こり、「もうだめかもしれねぇ」と何回もつぶやいたのだった。



…で、何がきっかけかは不明だが、11月に入って少しずつ気分が回復し始めた。しかしそれに付随してイライラも始まった。事情は良く分からないが、とにかくむかついてしょうがないのだ。昼間は感情をぐっと抑えているので平気だが、夜になると噴出してくる時が時々ある。壁を見るとほんとうに殴りたくなるのだ。そんな時は外に散歩に出て落ち着いてくるのを待つ。チョコラBBを飲み、Marilyn MansonSystem Of A Downを聴いていると癒される。音楽聴いておさまるなら可愛いものだろう…

Mezmerize

Mezmerize

アンチクライスト・スーパースター

アンチクライスト・スーパースター

今になって不思議なのは、9月ごろの、神経症を想起させる症候や、現在の易怒性が何をきっかけにして起こったのか、と言うことだ。もともとそういう気質を備えていたのだろうか。謎である。まるで他人事だが、同じような事が再び起こればとても耐えられないので、脳味噌にまつわる本を中心に鋭意調査している。分かったらまた報告する。多分あまり期待されて無いだろうが、一応。

AC

最近継続的に気分が優れず、疲れている頭と精神を回復させるために色々何かやったりぼーっとしたりしている。

で、家に帰って急遽暇になったので適当にWebページを閲覧していたところ、アダルトチルドレン(略してAC)に関するサイトが見つかった。そこにACの性格の傾向と言うコンテンツがあったので見ていたのだった。



周囲の欲求や期待に合わせて行動してきたため、自分がどう感じているのか、何を望んでいるのか、どうしたいのかがわからない。

感じていること、望んでいることがあっても、相手の反応をおそれて表現できなかったり、表現すべきでないと考え、自己主張ができない。

人との境界線があいまいで、嫌なことにもNOをいえなかったり、相手の責任まで背負い込もうとしたり、相手を自分の思うようにさせたがる。

「自分はここにいてよいのだろうか」「まだ自分では足りないのではないだろうか」という不安や不全感やむなしさが常にあり、ありのままの自分でよいとは思えない。

ってか俺じゃん。周囲から自分がどのように思われているのか知る由は無いが、少なくとも自己認識の上では、自分の性格は先にあげた4つの傾向を完全になぞっていて、驚くと同時にある意味爽快な気分になったのだった。


また別のページでは、衝動的な性格であるため周囲とトラブルを起こす傾向があると書かれており、思い返せば自分の行動の多くがその場のノリで決定されていたような気がしてきて何となく悄然としてきたのだった。


とりあえず知ってしまった以上は似たような人間を探して「心の傷」とやらを舐めあえばよいのだろうか。しかしおそらく最も効果的な解決法は、意識を外に向けるよう訓練して、自らの性格と和解することなのだろう。人前でしゃべることや、世の中のことに関心を持ち、あれこれ批評することは一種の癒しである。


大学4年にもなって、PCのモニターの前でうじうじしていることが何となく馬鹿馬鹿しいが、馬鹿馬鹿しいことにやたらと拘泥する状態を無理に頭で否定しようとするとまた「しんどく」なってくるのでこの辺にする。明日もがんばろう。

ありきたりな話3

最近まったく日記を書いておらず、「あいつはいったい何をしているのかまったく分からない」などと言われることも一度や二度ではなく、とても心苦しいのだが、一応元気です。ただ、ここ1ヶ月くらいは家でおとなしくしている時間のほうが多かったかもしれない。何とかならないか、とは思うのだけれど。


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最近気になった報道と言えば、これはやはり福田首相退陣、とでも言えばよいか。

衆議院参議院とで与野党の勢力が逆転している状況の下で、連立を組む片一方の党と、重要法案の取り扱いや経済政策の面で食い違いが生じた。純粋に数の力だけで法案や予算を成立させることが困難になり、かといってインフォーマルな交渉によって利害対立を止揚するだけの自信が無いのならば、さっさと辞めてしまった方が政治空白を最小限にとどめることが出来、合理的である。やる気の無いリーダーが日本国のトップに居座ることは、悲劇的というよりむしろ喜劇的である。

同じ辞める方法でも衆議院の解散ではなく首相の辞任と言う形式を採った最大の理由は、自民党の利益を最大化するためであり、これも合理的な行動である。

解せないことがあるとすれば、自民党が政権党としての力を喪失していることが誰の目にも明らかであるのにも拘らず、民主党自民党の支持率が拮抗していること、そして小渕や森の如く積極財政路線を掲げる麻生太郎に次期首相としての期待が集まっていること、この2点である。もはや保守は偉大であると言うほか無い。


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そんな皮肉はさておき、自らが重要視する政策を予算や法案に仕上げる事すらままならない現在の状況を繰り返さないためにはどうすればよいか。

そもそも望ましい統治の要件は「民主的正統性」と「政治的合理性の追求」が保障されていることである。経済、社会保障、農業、都市と地方など、ありとあらゆる社会領域が政治化している(つまり利害対立が生じている)時代においては、国民の支持を受けた統治者が強力なリーダーシップを発揮することが何より求められる。利害を調整するだけではなく、対立を解消することが最終的に困難である場合には決断する。憲法的制約の範囲内で決断する、こうしたシュミット的な発想は見直されても良い。

だとすれば、何よりも有効な処方箋は首相公選制の導入を含む、民意を反映する形での官邸機能の強化である。安倍・福田内閣がなぜ政権運営に行き詰ったかと言うと、本人の資質もあるだろうが、国民が選んだ内閣ではなく求心力を失いやすかったからというのが最大の理由だろう。

首相公選制によって、国民が首相を直接選ぶ仕組みを整備するのも良いし、もしそれが困難であれば、総選挙と各党の党首(総裁)選を同時に実施し、間接的に国民が首相を選べるようにする。その代わり、任期途中での党首辞任は極力制限する。そうすれば、政治の見通しは少しは良くなるだろう。

もちろん政治には、国民の私的利害の単なる集積を超えた「公益」を追求し、長期的視野に立った正しい政策を実現する義務が課せられている。現代日本において首相選択に民意が最大限反映されるようにすると、一種のポピュリズムに陥るのではないかと言う批判が必ず生まれる。


しかしこれは物事の順番が間違っている。なぜなら政治不信を解消する手段としては、「参加による安定」が「正しい政治」に先立つからだ。安定した政権基盤が無ければ、為政者が仮にいくら有能であっても政策は実現できない。



なーんてことを思った今日この頃である。明日もがんばろう。

終わりの始まり

官庁訪問が実質的に終了した。おそらく私は、来年からKSRD省の官僚として社会保障と雇用政策に骨を埋めることになる。


最後の決断は実に困難だった。当日の朝までZ省とどちらを選ぶかで迷い、最終的に「やりたい事」で選んだ。組織の雰囲気が少々気になったが、もはや後戻りはできない。途中「やっぱ向こうに行きたい」と本気で考えて採用担当に相談したところ、おっさんが現れて「こっちに来い」とマジ説得され、それでもまだ未練を捨てきれないでいた夜に、友人から「お前の選択は間違っていない」と言われ、吹っ切れた、というか。

何から吹っ切れたかと言うと、京都に生まれた野心的な人間がたどる道筋としてありうる、灘高校→東大法学部→財務省というルートへの拘泥であった。しかしそんな事はもう良い。私は目標を転換し、将来の事務次官就任を目指してターミネーター並みに仕事をすることを決意した。

    1. +

官僚の仕事の面白さのひとつであると私が感じたことは、種々の利害を綜合していくことである。サービスを供給する集団、受給している集団、地方公共団体、政治家、他省庁、その他もろもろの利益団体の意見を聞きながら、議論を積み重ね、制度に結実させていく。やがて制度は、新しい法案として閣議決定され、両国会で議決された後に社会全体へ流通していく。その長ったらしいプロセスの中に、世の中の「一筋縄でいかない感覚」が凝縮されている。彼らが面接で私たちに語ってきたことは、詰まるところ全て制度設計にかかる問題意識であり、方法論なのであった。


早い話私は「世の中」が好きなのである。シニシズムは底なしのオプティミズムへと容易に反転する。世界は認識ではなく行為によって変化すると信じ、錯綜する現実と格闘していきたいと思う。コトバの空虚さを、これからは振る舞いで埋め合わせていく。要はそういうことなのだ。

ボーナス

人物試験という名の面接が終わった。面接自体に特に特筆すべき事は無く、むしろ面接を廊下で待っていた時に隣の受験者と話した内容のほうが比較的印象に残っている。


その男はいかにも苦労人風で、何かにたとえるなら、毎日顕微鏡で細菌ばっかり見ていたせいで視力が悪くなって眼鏡を掛けているドラえもん、といったところだった。私が「試験めっちゃくちゃ不安ですよね〜」とわざと茶化して話しかけて相手が「ハイ。。。」と力無く返事をした後3分間の沈黙が訪れた。


…と、突然、男が語り始めた。

男「不安に思うだけマシですよ、まだ合格する見込みを捨ててないって事ですから。私なんて、そんな境地捨ててますから」
私「そ、そうなんですか?」
男「勉強だけは頑張ってきましたから…高校、浪人時代含めて」
男「もともと一次を突破する予定なんてまったく無かったんです。最初司法試験を受けていたのですが落ち続けて、大学院に残ってまだ頑張って、今度は一時的に公務員試験に切り替えて受けてるんです。でもボーダーにはなかなか届かなくて、今年も秋から冬に掛けて受けた模試で判定悪くて半ば諦めてたら、本番で勘が冴えて偶々受かって。。。」
私「ぉお…」
男「今まで一度も面接というものを受けたことが無くて、緊張しているのですが、やるしかありません」
私「ぉお…ところで第一志望はどこの官庁ですか?」
男「法務省です」
私「めずらしいですね」
男「司法に少しでも近いところで働きたいんです。検察官などと一緒に」
私「でもそういう所だと司法試験出身の人々が幅利かしてたりするんじゃないですか?」
男「いいんです、司法が関係していれば。試験区分は関係ありません」

壁に恋をする女がいるように、私の隣にいた男は六法という国家の産物に恋をしているかのようだった。公務員試験の面接を通過することなど端から眼中に無く、目指すは法の専門家、そんな福音主義的な情熱はどこからやって来るのだろう? 自分にはそちらのほうが気になった。

…と、そこで思ったのだが、一定の対象から派生する観念の群れによって自らががんじがらめにされることを恋愛と呼ぶならば、観念から派生する観念によって自らが支配されることも立派な恋に間違いないのである。そして抽象的な恋愛は具体的な恋愛よりも醒めるのに時間を要するのだ。ポケット六法は、彼らにとってのEvangeliumが詰まった新約聖書であり、「勉強だけは頑張ってきた」と豪語する司法試験受験者はまさにストア派である。



…独善的な言葉遊びはこれくらいにして、ともかく試験通過を祈るばかりである。目的や意味が何なのかすら良く分かんないけど頑張っているというのはあまり格好良くは無いが、愛があれば全然OKなのではないか。などと思いながら帰路に着いた。